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 恵まれた人生だとは思っていない。これが世間一般に謳われる普通でないのも知っている。
 飛び交う怒号、じめじめとした泣き声、漂うアルコール臭。
 うっせぇ、うぜぇ、くっせぇ。あんたらの間にどんな因縁があるか知らねぇ、いずれにしても手前のガキの前でやるんじゃねぇ。
 終いにはあの顔の赤いおじさんはお袋に飽きて、自分にだけ優しくしてくれる愛人の下へ飛び出していく。めそめそ泣き続けるお袋は、ただ何もされてない俺にごめんね、といい続ける。なにが? それを言ってどうなる? 俺は目の前の母親を壊す言葉を知っている、ただ言ってやるほどの熱意がないたけ。だから俺は今日も沈黙を貫く。
 お前は、大人だろ。自由も権利も勝ち取れる地位を持っているのなら、声を上げろよ。俺は、俺には、ただ泣くしかできないお前の下から、離れることも許されてねぇのに。

 それでも俺にはあんたらの血が流れてる。遺伝子と環境が人を作るなら、どうあがいたって未来は明るくないだろう?あんたらが俺の目の前で繰り広げるクソみたいな日常は、俺のいつかの未来だろう。
 ああ、無常。絶望? いいや虚無だ。故に未来に期待はない。結論を出してから、俺は一度だってマトモに授業を受けてない。遅刻、サボり、お前はこのままだと留年だぞ、なんて言ってくる先公はウザくて仕方ないが、こいつに何を言ってもどうにもならないことは知っている。
 タバコも飲酒もやった。群れを作ったりはしなかった。売られたケンカは全部買った。戦績は悪い方。勝つためにやってるわけじゃない。 
 いつの間にか俺は噂の対象になるくらい有名になった。やべぇ奴、怒らせたら怖い奴。別に学校で人を殴ったことはなかった。
 好きにしろよ。周りがどうあれ何かが変わるわけじゃない。

 学期が変わって新任が入ってきた。如何にも先生になりたくてなりました、みたいな若い奴。
 そいつは俺にしつこく付き纏った。なんでも生活指導部、なんだとか。やかましいったらありゃしねぇ。だからある日言い放った。
 「意味あんの?」
 そいつは言った。大学が云々、可能性が云々。聞き飽きた理想郷の話。そいつが謳えるのは俺と違う世界の奴だけだ。そりゃそうだ。俺は誰にもなにも言ってない。言ってないなら、やっぱり周りには、俺はお前らと同じ世界に生きているように、見えるだろう。だがそれが理解されてなんになる? 何もかもが面倒くさい。

 だから俺は。わざわざ足を止めて振り返って、そいつの目をしっかりと見て、鼻で嗤った。口角もへらり、と上がった。

 そいつは俺が逆上すると想定していたのだろう。或いは全く無視するとか、分かってますよ、なんて言って愛想笑いをするか。ああつまり、そいつは、しつこく俺の後を追ってきたそいつは、初めて言葉を詰まらせた。そうしてそれから、俺の後を追うのをやめた。

 ようやく俺の周りが静かになった。いいだろ、構うなよ。
 努力は確かに実るかもしれないが、俺の将来はほとんど確約されている。カーテンの閉じられた部屋の中。いくらも転がる酒の缶。金を稼ぐ宛があってもなくても、隣には気の弱そうな女がいて。俺はそいつの髪の毛を引っ掴んで、拳を振るう。きっとイメージの再現性は完璧だ。誰がどう見たって、クソッタレな野郎だよ。
 行き着く先がクズだと決まっているのなら、俺は金を稼がない方がいい。俺はきっと、人よりずっと早く死んじまう方が、いい。うまく生きる為の知恵も処世術も、俺は身に着けない方がずっと社会の為になる。心の底からそう思ってる。

 だから。
 あんたには、馬鹿な俺がどれだけ言葉を尽くしても、俺の世界も未来も理解できねぇだろ。なんで全部知ってますみたいな顔ができるんだ。
 あいつだ。新任の、生活指導部の、あいつが、数週間置いて俺の前に再び立った。泣きそうに、痛々しそうに眉を寄せて。
 だが立ちはだかるばっかりで、なんすか、と聞いても口を開けては閉じてを繰り返しただけ。話がないなら邪魔なだけ。踵を返して、そこで引き留めるようにようやく言った。
 「君の事情を知った。聞いて回ったんだ」
 ……は、と多分俺の口から漏れた。何を知ったって、なぁ、俺の世界の、なにを。

 「……大変、だったね」

 カッと頭が熱くなった。気づけば俺は掴みかかって、そいつを押し倒していた。そのまま拳が出る、なのにそいつはされるがままで。
 ふざけんな、ふざけんな、この馬鹿野郎。声に出ていた。

 なぁ、ふざけんなよ、お前。その言葉が、一番俺を馬鹿にしてるって、わかんねぇのか。一番俺を惨めにするって、わかんねぇのかよ。

 無我夢中で叫び続けた。その日その後、俺は数年ぶりに声を上げて、泣いた。

 【やさしくしないで】

2/3/2025, 8:35:36 PM