葉昨 ( はさく )

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お題【別れ】
『命名』

 火星のクレーターに名前をつける専門家は、きっと金曜日の夕方に猛烈な虚無感に襲われているに違いない。

 僕の仕事が、まさにそれだった。

 国際天文学連合の極東支部から送られてくる味気ない座標データを受け取り、あらかじめ用意された膨大なリストから、まだ誰にも使われていない人名や地名を機械的に割り当てていく。それが僕の、週に五日間の労働だった。

 人類の誰も一生立ち入ることのない不毛な赤茶けた窪みに、実体のない記号を宛がっていく。その無意味さに、僕はそれなりに満足していた。

 彼女、つまり流奈(るな)が僕の部屋から出ていく荷物をまとめ終えたとき、部屋の容積は正確に三割ほど増したように見えた。

「ねえ。」

流奈は僕を見た。

「私たちはこれで、国際法上の赤の他人になるわけね。」

「僕たちは最初から、法的な手続きを一切踏んでいないよ。」と僕は言った。

 台所の流し台には、昨夜二人で飲んだトマトジュースのグラスが二つ、乾いた膜を張って残されていた。それを洗うべきか、それとも彼女がドアを出ていくまでの貴重な三十秒間に充てるべきか。僕の思考は、こういうときにいつも決まって多数決を放棄し、ぬるりと重要な瞬間をやり過ごしてしまう。

 流奈が持っていくものは少なかった。
 三冊のペーパーバック。
半分しか入っていない化粧水のボトル。
 それから、僕が去年の秋にフリーマーケットで買った、象の形をした陶器製の塩入れ。

「どうして象なの?」と僕は尋ねた。

「この象は、自分が塩を入れる器だということを、たぶん一度も納得していないから。そういう顔をしてる。」

彼女はそう言って、象の鼻を人差し指でそっと撫でた。

 僕たちは二年と四ヶ月、この十三畳のマンションで暮らした。
 その間に、近所の古いコインランドリーが潰れて、小綺麗な無人餃子販売所になった。変化なんていつも、僕たちのあずかり知らぬ場所で、勝手に、しかし決定的に進行している。

「怒ってる?」

流奈がスニーカーの紐を結びながら聞いた。

「いや」と僕は言った。「怒るためのエネルギーが、今朝は調達できなかったんだ。」

流奈は小さく吹き出した。

「あなた、私が選んだカーテン、そのまま使うの?」

「次の人が来るまではね。」

「次の人なんて、当分来ないよ。あなたの部屋、日当たりが悪くて、まるで潜水艦の底みたいだもの。」

「潜水艦の底は、そんなに悪くない。魚の群れが見えないだけで、静かだし、魚雷の心配もない。」

 彼女は立ち上がり、小さなキャリーケースのハンドルを握った。

 引き止めるべきだろうか。
いや、何を?
 僕たちはもう、お互いの言語の文法を忘れかけていた。彼女の喋る言葉は僕の耳を通り抜け、僕の喋る言葉は彼女の肩をかすめて後ろの壁に当たって砕ける。正方形の穴に円柱をねじ込むような、不格好な作業がそこには残されているだけだった。

「じゃあね」と流奈は言った。
「さようなら」と僕は言った。

 彼女はドアを開けた。外の通路から、五月の少し生暖かい風が入り込み、僕の部屋を大きくかき混ぜた。
 ドアが閉まる。
カチリ、と錠が降りる音がした。それだけだった

 僕は一人で部屋の真ん中に立ち、自分の両手を見た。皮膚の表面がいつもより少しだけ薄くなったような気がした。

 僕は台所へ行き、トマトジュースのグラスを洗った。
 スポンジがグラスの内側を擦る音だけが、潜水艦の底に響いていた。流奈が置いていった象の塩入れは、もうそこにはなかった。彼女は連れていったのだ。納得していない顔をした象を。

 僕は冷蔵庫を開け、残された冷えた炭酸水をコップに注いだ。泡が静かに上がっては消えていく。その消滅の過程には、一切のドラマがなかった。ただの物理現象だ。

 翌週の月曜日、僕はいつも通りオフィスへ行き、火星の新しいクレーターの座標データを開いた。
 南半球、ヘラス盆地の東側に位置する、直径わずか四キロメートルの、何の特徴もない窪み。
 僕は手元のリストを見つめ、指先でキーボードを叩いた。

『LUNA』

 画面上で、その名前が新しい地名として確定される。
 これで彼女は、僕の部屋からは完全に消え去り、その代わりに、人類の誰も一生立ち入ることのない不毛な赤茶けた惑星の、誰も見向きもしない冷たい窪みとして、国際法上、永遠に登録されることになった。

 僕は静かに席を立ち、給湯室へ向かった。ポケットの中を探ると、流奈のものではない、見覚えのないコインランドリーの乾燥機用のトークンが、一枚だけ冷たく指先に触れた。

5/19/2026, 12:17:39 PM