《1件のLINE》
あー、疲れた。
5限までみっちり講義があった今日は、移動も含めて本当にバタバタした日だった。
当然今日までのレポートが大量にあったし、出された課題も。やってもやっても終わらないな。
帰ったらまずは洗濯機回しながら発達心理学のレポートの確認しておかないと。
明日はバイトもあるから早めに寝ておきたいんだけどな。
溜め息を吐きながら寿司詰めの満員電車に詰め込まれる。
ぎゅうぎゅうに押し潰されながら今夜の予定を考えていると、ポケットのスマホがぶるぶると震えた。
この震え方はLINEだな、とロック画面の通知を見た。
『今はまだ 眠れ
時は 未だ いたれん』
え?何これ?意味分からないんだけど?
しかもアイコンは夜の森に浮かぶ月で、名前は絵文字の月。
私こんな人と繋がった覚えないんだけど。自動追加もID検索もオフにしてるのに。
うわ、何怖過ぎるでしょ。
背筋がゾッとするような恐怖に見舞われて、最寄り駅で降りたら即座に月のアカウントをブロックした。
今は潜り抜けて友達追加出来るようになってるのかな、本当に気持ち悪い。
怪しいアカウントを消したけれど、心に残る恐怖を押さえ付けながら、頼りなさげな街灯を辿って自宅へ急ぐ。
最後の角を曲がろうとしたその時、スマホがぶるぶると震え始めた。今度は通話だ。
誰だろう、とロック画面を開くと、夜の森に浮かぶ月のアイコン。
どうして?さっきブロックしたはずなのに?
あまりに不可思議な状況は、理解の範疇を超えている。
そのせいかな、何故だろう。心の中から恐怖が消えている。
それどころか、むくむくと好奇心が湧いてきた。
いつもなら絶対に取らないであろう、未知のアカウントからの通話をオンにする。
いったいどんな相手が掛けてきてるのか。
「…もしもし?」
スマホを耳に当て応答する。
まず聞こえてきたのは、音だった。
ザ…ザザ…
いわゆる砂嵐。
こっちの電波は申し分ない。そうなるとあっちの電波状況かな?
にしても、ここまでの砂嵐はそうそうないけど。
耳に付く音に眉根を潜めていると、やがて微かにだけど声が聞こえてきた。
「……くは……ここ……います……叶う……会いた……」
知らない男の人の、柔らかく優しい、それでも強く希うような声。
知らないはずなのに、聞いたことがないはずなのに。
どうしてか、ひどく心惹かれる懐かしさ。
声の主を求める想いが、魂の奥底から滾々と湧き出てくる。
不思議な想いに胸を鷲掴みにされたかと思えば、頭の中がぐらりと揺れ、一瞬視界が暗転する。
倒れる!と身体の芯に力を入れて目を瞬かせれば、そこは先程までいた自宅への夜道ではなかった。
黄金色のパイプのような金属で出来た建造物。
その建造物の至る所から吐き出される煙。
道路は補正されてはいるけど、歩道と車道の区別もない。
道行く人の服装は、何だろう。女の人はクラシカルなドレス? 男の人はシルクハットや羽付き帽子を被り、マントやチュニックを身に着けてる。
自動車なんて走ってない。電車なんか通ってない。
コンビニ? 何それ? といった感じの街並み。
ここはどこなの?
その黄金色に圧倒されていると、また視界が暗転。
私は、元いた道路に戻っていた。
それに安心して曲がり角を曲がると、通りの奥の街灯に照らされて立っている見知らぬ男の人が私を見てた。
まず目に付いたのは、見たこともない服だった。
モーニングとフロックコートの中間のような、背中部分の腰から下が長めの、硬めの素材で出来たジャケット。
肩にはまるで鎧の肩当てのようなパーツが同素材で付けられてる。
ボトムスは普通のスーツのようだけど、膝から下は金色の硬質な脛当てを装備してて。
腕には同じ金色の腕輪を袖の押さえに付けている。
そして目に入ったのは、その表情。
凄く整った中性的とも言える顔は、寂しさで曇っていて。
スッと通った鼻梁の下にある薄い唇は、何かに耐えるように引き結ばれていて。
細い眉は悲しそうに寄せられて、涼やかな目から放たれる視線は乗せきれないほどの切なさで溢れていた。
男の人にしては長めの髪が、風にさらりと揺れる。
さっきの通話の声は、この人のものだ。
根拠はない。それでも確信できる。
この人は、かけがえのない人だ。
彼を見た私は、無性にそちらへ行きたくなった。
知らない人のはずなのに、心が引き寄せられる。
慰めたい。悲しみを取り除きたい。笑顔にしたい。
声にならない願いを口に含みつつ身体を前に出そうとしたけれど、足は動いてくれない。
その瞬間、目の前を車が一台通り過ぎていった。
そして気が付けば、そこには誰もいない街灯がぽつりとあるだけだった。
今のは何? 幻?
額に手を当てて呆然とする。
そうでしょう? だってあんな街並み、見たことがない。
今やスマホで色んな情報が手に入る。それこそ世界中の都市の画像も自由に閲覧できる。
それなのに、あんな街並み見たことない。
あんな男の人だって…見たことない。
なのにどうして、こんなに胸が苦しいの。
会いたくて会いたくてたまらないの。
今まで経験したことのないやるせ無さを持て余しながら、私はスマホの通話記録を見つめていた。
7/12/2024, 12:30:09 AM