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「案外、大丈夫なものですよ」

 彼女はそう言うと僕に向かって微笑んだ。


 都内の高級ホテルの豪華なスイートルームで、夜景をバックにベッドの上で寛いでいた。先程まで最上階のバーカウンターで飲んでいたところを、彼女に声を掛けられたのだ。六本木のバーや麻布のクラブで数回一緒に飲んだことがある子だ。
 まさかここでも会うなんて、と隣に座った彼女と盛り上がり、スイートルームに興味があると言われたので宿泊予定の部屋まで連れてきたのだ。

 いい歳の男女がホテルの一室でやることなんて決まっている。

 シャワーを浴び終えて部屋に戻れば、彼女はキングサイズのベッドの上に寝転んで夜景を眺めていた。僕がすぐそばでベッドに腰を下ろすと、彼女はようやく僕の存在に気がついて隣に座った。彼女もきっとこれからやることに覚悟を決めているのだ。
 やることは決まっている。彼女も腹を括った。それでも僕は内心かなり動揺していた。
 僕は女性経験がほとんどない。
 本来なら彼女をリードしなきゃいけないんだろうけど、正直どうしていいかわからないのだ。男は力が強いから、万が一にも力加減を間違えて怪我でもさせてしまったら。そんなことが頭をよぎっては消える。臆病な自分に嫌気がさす。
 いつまで経っても手を出してこない僕の様子が変だと思ったのだろう。彼女が「もしかして」と発した。たったそれだけでも、何を指しているか察せてしまった。だから頷いて、今考えていることを馬鹿正直に伝えたのだ。
 そしたら冒頭のように、彼女は笑ったのだ。


 宙に浮いたまま行方を探っていた僕の手が、彼女の手に捕まった。手を繋がれたまま、彼女の頬へ誘導された。
 僕の手のひらが彼女の頬に触れた。

「そうっと、優しく。それさえ気をつけてくだされば、簡単に折れやしません」
「そうっと、優しく」

 彼女の言葉を繰り返しながら、彼女の頬を撫でてみた。彼女の白くてきめ細やかな肌が、僕の手のひらに吸いついてくる。クセになる肌触りだ。ずっと触っていたい。
 彼女は夢中になって頬を撫でる僕をクスッと笑った。

「気に入っていただけましたか?」
「あっ、いや、あの……はい」
「では次ですね」

 今度は彼女の腕がこちらに伸びてきた。僕は咄嗟に身構えて硬直してしまった。両手は膝の上で強く握り、眉間に皺を寄せて、目を固く閉じた。
 次の瞬間、ベッドの軋む音と共に甘くて芳しい匂いに包まれたのだ。

「そう硬くなさらないで」

 彼女の声が、耳のすぐそばで聞こえた。彼女の艶やかな声が、色っぽい息遣いが、耳から伝わってくる。
 彼女の細い腕が、どうやら僕の背中に回っているらしい。彼女なりに力を込めているようだが、締め付けも何も感じない。彼女に触れている部分だけが、異様に熱を帯びている。

「さぁ、私の背中に腕を回していただけませんか?」
「えっと、それは」
「先ほども言ったでしょう」

 そうっと、優しく。

 彼女の発するセリフ一つ一つが、僕の頭を溶かしていく。酒に酔った感覚に近い。頭がクラクラするのだか、不思議と気持ち悪さや不快感は一切ない。
 俺は膝の上で拳を握っていた両手を、彼女の背中に沿わせた。力を入れないように、でも彼女を自分の腕の中に閉じ込めるように、抱きしめた。抱きしめたら、より一層彼女の香りが強く感じられた。
 目をそっと開けると、彼女の頸辺りが視界の端にあった。少し汗をかいているのか、しっとりと濡れた頸が堪らなく魅力的に映った。
 俺は彼女の肩に顎を乗せて、頸に鼻を寄せた。スンと鼻がなってしまったが、より濃さの増した彼女の香りが吸えることに、興奮を覚えた。
 彼女はあぁ、と声を漏らした。僕はその声にビクッと肩を揺らす。やがて彼女の手が、僕の肩まで這い上がってきた。

「ドキドキしてしまいます」
「君が誘導したのに」
「そんな意地悪を仰らないで」

 貴方だからここまでも、これ以上も許しているのですよ。

 彼女の言葉に、思わず腕に力が入った。もっと近くで彼女を触れたいと、感じたいと思ったからだ。
 慌てて力を緩めて、彼女から少し体を離す。彼女の顔を正面から覗き込むと、目が合った。目を潤ませていながら、どうしようもない熱を帯びた瞳だった。
 その目に吸い込まれるようにして、顔を寄せる。彼女の方も顎を少し上げた。そうすると、彼女の魅惑的な唇が否が応でも視界に入った。
 美味しそうだ、と思った。
 思った時にはすでに僕の唇を彼女のソレに合わせていた。可愛らしいリップ音が鳴り、一瞬の柔らかい感触に戸惑った。もう一度味わいたくて、唇を重ねる。何度も繰り返しているうちに、深くキスを交わしていた。彼女の鼻から漏れる声に、ゾクゾクと背筋が震えた。
 唇を離すと、彼女は肩で息をしていた。そうだ、男の僕と女の彼女では体力も違う。自分勝手にキスをしたが、彼女のペースに合わせないと呼吸ができなくなってしまう。
 ごめん、と咄嗟に謝れば彼女はまた大丈夫、と言った。

「私も、気持ち良かったので」

 頬を赤く染めて恥じらう彼女が、とても愛らしかった。女は花のように繊細かと思ったが、意外とタフで大胆なようだ。
 僕はもう一度、リップ音が鳴る程度の軽いキスをした。

「もっと深く、貴方に触れたい」
「えぇ、もちろん」

 微笑んだ彼女の腕が、僕の首に回る。僕はベッドに彼女を押し倒して、覆い被さった。
 するとまもなく、首の後ろに冷たくて鋭利なものが触れた気がした。彼女の顔を覗き込むと、今まで見たことないほどの険しい表情を浮かべていた。

「触れるものならね」

 体は許しても、心は許してないから。

 次の瞬間、目の前が真っ赤になり、全身に激痛が走った。




『繊細な花』

6/25/2024, 4:54:04 PM