螢火

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ちりりん。
軽い音で扉についたベルが鳴る。
カウンターの奥でグラスを拭いていた店員がちらりとこちらを見た。彼は「いらっしゃいませ」とは言わずただ軽く頭を下げる。席も自分で決めていいらしい。私が奥へ進んでも何も言ってよこさない。そればかりかこちらへ目も向けなかった。私は奥の窓際の2人席に腰を掛け、向かい側の席に荷物を置いた。荷物と言っても財布とPCぐらいしか入っていない。数ヶ月前からスマートフォンの煩わしさが気になりだし、突如解約してしまった。連絡を寄越す者はもういないのに、常に世界中から情報が届くことがなんとも虚しく、煩わしく感じてしまったのだ。あまり他者と関わりを持たずに生きてきたことが功を奏し、スマートフォンを解約してから今日までなんら困ったことは起こっていない。それがいいことなのか寂しいことなのか、私にはわからない。
手元のメニューに目を落とす。くたびれているがしっかりとした作りのメニュー表である。珈琲と紅茶で迷う。甘いものも食べたい。お冷を出しに来た彼に「珈琲とガトーショコラ」と声をかけると彼は静かに「かしこまりました」とだけ呟いた。私と彼しかいない店内では静かにジャズが流れている。重厚感溢れる造りの窓からは雨が当たる音が聞こえてくる。なんとも言えない心地だ。
その時突然扉がばん。と開いた。突如崩された静寂にいささか彼も驚いたようで、目線がすっとそちらに移動する。入ってきたのは若い女で、歳は20代前半のようであった。服装は割と地味だったが右手に掴んだ大きなキャリーケースとヒールが低めの靴だけは、自己主張が強く眩しい白であった。女は大雑把な性格と見えて、明らかに柄ではない赤い汚れがキャリーケースと靴に見える。急いで来たのか少し息を切らしている。その女は迷わず彼の目の前のカウンター席についた。雨粒を払って、キャリーケースを自分の脇に寄せる。女はお冷を待たずに「冷たい紅茶をちょうだい」と言った。彼はまた「かしこまりました」と呟いた。
少しして私が珈琲を啜っていると、突如女が口を開いた。「あのね、私今から遠くに行くの。」彼は少し黙っていたが「はい」と答えた。「諦めようかと思ったんだけど、やっぱり怖くなって諦めるのをやめたの。でも後悔はしていないわ。」女の声はよく通る声で私の耳にも自然と流れ込んでくる。東北訛りが入っているのか少々イントネーションが変わっているようだ。「好きな人がいたんだけど、友達の彼だったの。でもとても魅惑的だったの。彼も彼だわ。彼女がいるのに他の女となんて同罪、いやもっと重罪よ。だって2人の女を騙しているんだもの。」彼は黙ったままでただ作業をしている。女はそれで満足なようだった。女は深く息を吐くとキャリーケースを少し横にずらして立ち上がった。そのままお金をそこに置き、「ごちそうさま」と言って出ていく。来た時とは打って変わって扉はちりりん。と静かに鳴った。
きっと彼女の話はわかる人にはわかるのだ。彼も私もわからなかったが、彼女の話は「過去」であった。それと同時に「今」でもあった。彼女のこの道の先には灰色の壁が待っているだろう。彼女の恐怖心はそれが迫っていることを切に表していた。










--------------------夕顔が揺れる。
『この道の先に』

7/3/2024, 1:32:12 PM