115.『雪原の先へ』『凍える指先』『温もりの記憶』
雪山で遭難した。
吹雪の真っただ中で、周囲は数メートル先すら見えなかった。
今いる場所の見当もつかず、目的も無いままひたすらに彷徨っていた。
まさか冬の山がこんなに危険だとは……
防寒は気を付けたつもりだが、ほとんど役に立っていない。
がくがくと体は震え、凍える指先は既に感覚がなかった。
奇跡でも起こらない限り――いや、奇跡が起こっても間に合うかどうか……
もはや、ここまで……
俺は死を覚悟した。
その時だった。
(あれは……?)
吹き付ける雪の向こうに、なにか茶色いものが見えた。
天の助けか、脳が見せた幻か……
遠いこの場所からは、判別が出来なかった。
だが今の俺には、他に頼るものはない。
たとえ幻であろうとも、行ってみない事には始まらない。
俺は最後の気力を振り絞り、雪原の先へと向かう。
そして無限とも思える時間をかけ、目的地へとたどり着いた先にあったのは避難小屋であった。
(これで寒さがしのげる……)
俺は内心で神に感謝しつつ、中に入る。
屋内は外と同じくらい寒かったが、風がないおかげでかなり快適だった。
小屋の中央には、たき火の跡があった。
火を点けるための道具は揃っていたので、薪を放り込んで火を点ける。
たき火の暖かさが、凍りかけていた俺の体を溶かしていく。
だが、思っていた以上に疲れていたらしい。
体に熱が戻っていく感覚とともに、睡魔が襲ってきた。
(暖も取れたし、少しくらい寝てもいいだろう)
体を横にして、夢の世界に身をゆだねる。
そしてどれくらいのそうしていただろう……
突然小屋の扉が、キィーッと開いたのである。
(別の遭難者が来たのか……)
寒気で目を覚まし、意識がまどろんだまま扉を向くと、一気に目が覚めた。
入って来た人影は、およそ人間とは思えなかったからだ。
人影は女性だった。
だが顔には生気がなく、肌は病的なまでに白い。
陰気な気配を漂わせ、フラフラと歩いている。
なにより決定的だったのは、その女が防寒着の類を一切着ていないことだ。
(まさか、雪女!?)
この山には雪女伝説がある。
『吹雪の中、小屋で寝ていると雪女がやって来て、寝ている男を氷漬けにして、自分のモノにする』という伝説が。
それを聞いた時は、『所詮伝承だろ』と思っていたが、まさか実在するとは思わなかった。
山に対する備えはしていたが、雪女の対策なんてしていない。
逃げようにも外は吹雪。
助かる保証なんてどこにもないし、そもそも体が疲れていて、少しも動けそうになかった。
だが、吹雪の中で死ぬよりはマシなのだろう。
温もりの記憶を抱いてしねるのだから。
ところがである。
雪女は横になっている俺を興味なさげに一瞥しただけで、たき火を挟んで俺の向かい側に座った。
そして、俺なんて存在しないかのように、なにやら作業をし始めた。
(何をするつもりだ?)
雪女はたき火の脇に転がっていた鍋を手に取り、その中に雪を入れ始めた。
そして十分な雪が入った後、そのまま火にかける。
湯を沸かしているようだった。
そして湯がぐつぐつ沸騰したのを見て、満足そうにコクリと頷いたかと思うと、傍らからラーメンの袋を取り出した。
(まさか、ラーメンを食うつもりなのか!?)
この時点で、俺の恐怖はすっかり薄れていた。
雪女の行動に興味津々で、自分の置かれている状況も忘れ、雪女をじっと見ていた。
それほどまでに、目の前の光景は興味深いものだった。
だがそれがいけなかったのかもしれない。
不意に雪女と目が合った。
そして雪女は目を見開き、
「うわ、生きてる!?」
と文字通りひっくり返った。
まさかそんなに驚くなんて、思いもよらなかった。
しかし死んだと思っていても無理はない。
確かに微動だにしなかったもんな……
「なんか、ごめん」
何がごめんなのか分からないが、とりあえず謝る。
すると雪女はバツが悪そうに、こちらを見た。
「なんで死んだふりしてたんですか!
鍋をひっくり返すところでしたよ!」
「そんなつもりじゃなかったんだが……
どうせ殺されるし、抵抗は無駄かと思って」
「殺す?
なんの話です?」
「雪女は男を氷漬けにするんだろ?」
「やだなあ、何時の話をしているんですか?
今は令和ですよ。
そんなことはしません」
朗らかに笑う雪女。
そこは、人間を害そうという意思は感じられず、俺はほっと胸をなでおろした。
「ところで、貴女は何をしているんですか?」
俺が姿勢を正して聞いてみると、雪女は再びバツの悪そうな顔をした。
「……雪女って、ラーメン禁止なんですよ。
体に悪いので」
「え?」
「だから、こうして隠れて食べているんです」
雪女って、ラーメン食べちゃダメなのか……
確かに、ラーメンと雪女は相性が悪そうだもんな。
俺が納得すると、雪女は決意を秘めた目で、鍋を差し出してきた。
「という事で、このことは黙っててもらえますか?
これ、あげるんで」
☆
翌日、俺は無事に下山できた。
長時間吹雪の中にいたので検査入院となったが、特に後遺症はないと言われた。
雪女にもらったラーメンのおかげかも知れない。
雪女はどうなったかと言うと、
「あんまり外に出ていると怪しまれるんで帰りますね」
と吹雪の中を出て行った。
もちろんラーメンを食べてからだ。
ラーメンを食べている彼女は幸せそうだった。
きっと好きなのだろう。
だから、彼女のコソコソしている様子に、少しだけ同情した。
好きなものが、好きな時に食べられない。
それは、とても辛い事だから。
別れ際の寂しそうな彼女の顔を思い出しながら、俺は決意した。
もう一度、あの避難小屋に行こうと……
そして、あの小屋にご当地系のインスタントラーメンを持っていこうと……
会えないかもしれないし、また吹雪にあうのもゴメンだけど、あの雪女になんとかお礼をしたいのだ。
ラーメン好きの彼女なら、きっと喜んでくれるはずだ。
と、そこで気づく。
下山してから、彼女の事ばかり考えている事に……
「まるで恋しているみたいだな」
なるほど、雪女伝説はあながち間違いではなかったようだ。
氷漬けにはされなかったけど、暖かい手作りのラーメンによって、俺の心はまんまと彼女のモノにされたのである
「一生ラーメンを食べさせてあげるって言ったら、結婚してくれるかな」
俺はそんな事を思いながら、スーパーへと足を向けるのであった。
12/16/2025, 1:07:14 PM