【タバコ】
「それで最後か」
整備長のおやっさんが笑いながら歩いて来る。
夕立が上がって、滑走路のアスファルトから雨と芝生の匂いが風に乗って吹き上がる夏の日だった。
「はい、これで最後です。全部バラして洗ったりしてたから、
だいぶ手こずりました。」
「おぉ、ご苦労さん。コイツも年寄りになったからなぁ。」
整備長が翼のエルロンにそっと手を置く。
「オレとおんなじ。年寄りだ。」
汗が光るまん丸の顔をにかっとしわ寄せながら笑う。
「腕ぇ、上げたな。お前の親父さんそっくりだ。」
「どこで分かるんですか?」
エルロンの動きを確かめるように上下に揺らすおやっさんに麦茶のグラスを差し出しながら問いかける。
「どこでもわかるさ。ほら見ろ、左右ピッタリ止まるじゃねぇか。」
おやっさんがぐびっと麦茶を煽って飲み干しながら、主翼のエルロンを揺らす。
ガタリガタリとエルロンの噛み合う音と、あっという間に空になったグラスの氷が転がる音が格納庫に響く。
「なんか手をとりあってるみたいですね。」
「考えてみりゃあそうだな!どの女よりも長く乗りこなしてるかもしれん!」
ガッハッハッと大きな笑い声を上げて、おやっさんは陽の沈む西の空を見上げる。
「もう、飛べない身体になっちまったがなぁ」
「また、戻りたいですか?」
「そりゃあそうだ。オレ達はあそこでしか生きれん」
「大袈裟ですよ」
「そういうもんだ。お前にも分かる時が来るさ。いつまでも格納庫で油にまみれることもねぇだろう?」
「高いところが嫌いだから、もうしばらくここで良いかも知れません」
「本当に変わり者だな!だが心配するな、空はとっくにお前の魂を捕らえているんだからな!いずれ上がる、トレーニングもしておけよ!」
またガッハッハッ!と笑いながら、おやっさんが背中を向ける。
西日が滑走路を赤く染めていく。
格納庫に一人取り残された僕は道具を片付けて、フラフラと滑走路に歩いて出る。
空からエンジンの音が聞こえた。
むわっと湿気が上がり、風だけは冷たく吹き付ける。
大きな入道雲が陽の光を全身に受けて、今の時間だけは月の役目を担っているかのように輝いていた。
胸元からタバコを取り出して、キンと音を立てて火を付ける。
「…なんでお前が先に空に還るんだ。」
空に登るタバコの煙を睨みながら、地上に居るしかない僕は、深くタバコを吸って煙を空に吹き出したのだった。
Fin
7/15/2024, 1:36:12 AM