『君を探して』
何処に行ったのやら。
気づいたら姿の見えない《水航》に《仄燦》は辺りをぐるりと見渡した。ちょっと目を離すと忽ちいなくなるのは、どちらかといえば《水航》ではなく、《水航》の弟の《地歩》のほうだったが、時にはこんなこともあるのだろう。
なるほど、兄弟だ。
妙なところに感心しつつ、《仄燦》は立ちあがった。
《地歩》は以前この館に仕えていたこともある。その縁もあって《水航》はここに来た。
《水航》は《仄燦》とは正反対に読書は最低限しかしないと云っている。一処に留まるよりは動き回っていたい男だった。
しかし話は合う。書を好かぬながらも、知識は幅広い。書で手に入れた知識を《水航》との会話で裏打ちしていく、そんな最近の日々は《仄燦》にとって異色で実り多いものと感じている。
《仄燦》は読み終わった書物を懐に入れた。
一体いつのまに《水航》が傍を離れたのか、《仄燦》は知らぬ。書を読むに没頭していて気づかなかったのだ。書物がもう少し量があって、読了がもう少しあとだったら、その分不在に気づくのは遅かっただろう。
読書中の《仄燦》の集中力は並外れている。たとえ地震でも火事でも気づかぬだろうと周りは云う。天が墜ち、世が灰燼に帰しても、書とともに滅ぶだろう、と。
(しかし……《水航》。そういえば何か云っていたような……)
だから、《仄燦》がそう思ったことを口に出して誰かに聞かれていたら、それこそ世の終わりも間もないと口さがなくひとは噂したはずだ。
しばらく立って思案ののち《仄燦》は《水航》を求めて歩きはじめた。
◆◆◆◆◆
一方、《水航》。
《仄燦》の読書中には世界と切り離されているかのような集中力を知らぬわけではない。
だが《仄燦》の傍に仕えてまだ日は浅い。仕える者らから聞かされていても、まさかそこまでとは思いもよらない。一応声はかけたし、構わないだろうと軽い気持ちで傍を離れた。
この広やかな庭園の、少し奥で見かけた果実がなっているのを見かけていた。
その実を捩って、元の場所へ戻る。――その場に《仄燦》の姿は既にない。
(あれ……?)
何処に行ったのやら。
奇しくも《仄燦》と同じことを考えていた。
そして探し出す。この選択も同じ。
息がぴったりなのはいいことかもしれない。
不運なのはどちらもが留まって待とうと考えなかったこと。
相手がいそうなところは何処だと候補を絞った、その候補がほぼ一致していったのは見事だ。
そしてまたしても不運はその『相手が訪れそうな候補地』を同じ順でまわりながら、時間だけきれいに、ずれていたことだった。
◆◆◆◆◆
この辺りと探した場所がすべて空振りで《仄燦》は困憊しながら元の場所へ戻ってきた。
もしかしたら急に体調でも崩して、庭園から館へ戻ったのかもしれない。
読書中、《水航》が話しかけてきたのは、そのことだったのか?
心配と己れの不甲斐なさに駆られて速歩で館へと向かう。その途中、館に仕える宮女にゆきあった。
「あら、お館さま」
おっとりと挨拶をする宮女に《仄燦》は勢い込んで問う。
「すまぬ、《水航》を知らぬか」
「あら」
宮女は鈴の音のように笑った。
「何がおかしい?」
若干の苛立ちを覚え、しかしそれを抑えこんで《仄燦》は訊いた。抑えたつもりでも伝わったか、宮女は表情を改める。
「失礼いたしました、お館さま。《水航》さまと同じことをお訊きになったので」
一礼して手を伸ばす。
「わたくしが存じませぬと申しあげましたら、部屋に戻るとのことでした」
「《水航》は無事であったか?」
さすがにこれには宮女も目を瞬かせる。館の庭園に危険など、ありようもない。転ぶことくらいはあるかもしれないが、《水航》の運動能力を思えばそれもありそうにない。
「ご無事。はい、《水航》さまは特に何もなく……」
《仄燦》は最後まで聴かなかった。身を翻して館へ向かう。
「あらあら……お館さま……」
もう十度以上も持ち込まれた縁談。
今度の相手には珍しくも好感触だと、館に仕える誰もがうっすらと思ってはいたが。
女館主の背を見送って宮女は、母のように慈愛あふれる笑顔になった。
「よきこと」
3/14/2025, 11:02:59 AM