ドルニエ

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 たまに、ごくたまに、町の宿の屋根にふたりで腰をかけて空を眺めることがある。大抵は酔っているので俺の足どりはいつも危なっかしいが、あのひとは職業柄なのか、それとも異常に酒に強い体質のせいなのか、いつも足音ひとつ響かせずに棟を歩く。今日の空は――曇りだ。星ひとつ見えない、真っ黒な空。ただ、俺はどうしてか星空よりもこっちのほうが落ち着いた。
「お前も本当に変わっているな。何も見えんだろう?」
 そう、隣で足下で行きかう人々の群れを盗賊の目で見ながらあのひとが言う。
「落ち着くんですよ。雲の模様が。全然、何にも見えないってことはないです。見通せない空の向こうにも星はある。未来みたいじゃないですか」
「そんなものか?」
 くふ、とあのひとがたぶんげっぷをおさえた。俺は厚い雲の模様を睨みつける。
「僕の故郷はですね、この空みたいなものだったんです。老人たちがいろんなことを隠して、都合のいいことを人々に吹き込んで――いえ、彼ら自身信じていたのかもしれませんが――、それを俺たちは信じて。それはそれで幸せだったと思うんです。そこに収まっていればやるべきこと、言うべきことに迷うことはありませんから。でも、」
 僕はあなたに出会って、それが壊されて――いえ、壊してしまったんです。
「でも、星空の向こうに別の景色が、もしかしたらあるのかもしれない。星の向こうに、星よりも冷たくて、曖昧で、なんのよすがにもなってくれない何かがあるかもしれないじゃないですか」
「――分からん。なにを言ってるんだ」
 ちっとも酔いを感じさせない口調で、つまらなさそうに俺を見る。
「そう、星空がカーテンだったら、その向こうに一体何があるんだろうって、そういうことです」
「――」
 なあ、とあのひとは俺の顔をのぞき込む。
「お前はどこへ行きたいんだ?故郷を捨てて、老人たちとやらの甘言を振り切って、まだその先があると?ここでは駄目なのか?腐ったこのオルステラに縫い留められた私をも振り切って、お前はどこへ行くんだ?」
「――」
 襟を掴まれる。宿の部屋で触れてくるときよりも熱い手で。
「ここにいろ。いま、このときはここだ。雲の向こうなんか見るな」
「――」
 無言で唇を重ねる。触れては離れ、離れては触れる。酒臭い、堕落した臭いが鼻につき、ほんのわずかにうろたえたところを俺は抑えこまれ、屋根に突き倒される。熱い体がのしかかってくる。
どうして、僕がここにいないって、思うんですか――唇を重ねる合間に、切れ切れに問う。
「分かっていて訊くか。なあ、」
 す、とあのひとの手が腰に伸び、ひた、と彼女の得物が首筋に押しあてられる。
「僕はA****にいて、あなたのそばにいて、そして自分の旅の中にいます。僕には僕の目的があります」
 喉が動くたびに刃がめり込み、ちくちくとした痛みが走るが、押さえつけられた俺には逃れるすべはない。彼女が少しでもその気になればそれは簡単に皮膚に食い込むことだろう。
「だから、僕は選ばなくてはならないときが来るかもしれない。もし、そのときにあなたがA****よりも僕を選んでくれるなら、僕は――」
「甘ったれるな。私も、私の旅にいる。だから、私の旅になるんだ、お前が。それならお前を選んでやってもいい」
 ちく、とさらにナイフが食い込む。痛みではないものが俺の涙を呼んだ。
「僕は――」
 つう、とあふれた涙が目じりから落ち、屋根に溜まり、充分な大きさになったそれは傾斜を伝ってどこかへと消えてゆく。
「僕は、『持っている』んですね」
「『持たれて』いるんだ。お前を持っているのは私だ。私の中で、偏りを生んでいる」
 はい。
「あなたに認めてもらえたら、僕は僕の旅に出られる」
 俺が俺の楔となって、鎖を断つ。断たなくては、この旅もいずれ終わってしまうだろう。その前に、俺は。
 ナイフが引かれ、鞘におさめられたらしい。あのひとの両の手で頬が挟まれる。
「私に染まれ。染まって染まって、どこまでも深い赤になって、そして私の中の淀みになってみせろ」
「――」
 僕、は――
 唇が塞がれ、割られ、彼女が侵入してくる。絡み、絡めとられ、それでも一体になれずになぶられる。
「何も約束などしてやらん。絶対にだ」
 俺は俺のために、どこまでもあなたに。
「っ、えっ――」
 どうしてかは分からない。涙だけでは足りずに、ついに変な声まで出はじめて。
「行こうか。あまりうるさくすると見つかってしまうからな」
「――っ、――、はい」
 俺はようやっとそれだけを返すと、たぶん真っ赤な顔で、あのひとの背を追ってふらふらと棟を歩きはじめた。

3/11/2025, 1:23:39 PM