『芽吹きのとき』
その日、大学からの帰り道、怪しげな老婆に出会った。
「ちょいと、お嬢さん」
突然声をかけられた私は、ビクリと足を止めた。日もとっくに沈んだこの時間、昼間なら両脇に連なる店が賑やかなこの通りも、今はシャッターが降りてしまって、ひと気がない。いつもならできるだけ早足で通り過ぎるはずのところだった。
少し先の方に立った老婆が、こちらを見ている。
一体何の用だろうか。いや、その前に、さっき呼び止められたのは本当に自分だったのだろうか。
老婆から視線をそらして、周りを見回す。だがやはり、老婆をのぞくと、自分以外の人の姿はどこにもなかった。
きょろきょろと首を振るのを見て、彼女が再び口を開いた。
「そうだよお嬢さん、お前さんに話があるんだ」
「えっ……?」
街頭の灯りの届かない暗がりで、腰の曲がった老婆が何かを手に持ち、こちらを見上げている。
そのことがどうも不気味に思えて、無意識に身構えた。
「なぁに、怖がることはないさ。ただわしは、お前さんに1つ頼みがあってな」
「……頼み?」
「あぁ、そうさ」
闇の中でかすかに頷いた老婆が、おもむろにこちらに近づき、その姿が街頭の灯りに照らしだされる。
「お嬢さん、これを育ててみる気はないかい」
灯りの下で見る老婆は、さっきまでの印象とは少し違って見えた。顔にはシワが、特に目尻に深く刻まれていて、目は伏せがちだが、時折こちらの目をのぞくようにまっすぐに見上げてくる。鼻と口は小ぶりで目立たない。その代わり、彼女が話す声は、夜の静寂をまとったような不思議な響きをしていた。
全くもって当てにならない直感だが、この人は悪い人ではないと思った。
老婆は、右手に鉢植えを持ち、左手に小さな白い紙の包を持って喋りだす。
「〝ツクモソウ〟という名を聞いたことがあるかい」
始めて聞く名前だったので、首を振る。
「あぁ、きっとそうだろう。これを実際に見たものはそういない。めずらしいものだからね。この〝ツクモ〟というのは〝九十九〟と書くのさ」
頭の中で、〝ツクモソウ〟を〝九十九草〟に変換する。
「この包の中に、九十九草の種が1粒だけ入っておる」
包が風で飛ばされたりしないように、老婆はそれをしっかりと握りしめている。
「ほれ、あそこをご覧」
老婆の視線の先を追う。
「今日は満月だ。それも、雲1つかかっておらん完璧な満月だ。今夜を逃せば、この九十九草を植えられるのは来年、いやもっとずっと先になるかもしれぬ。この時期の満月が、毎年晴れておるとは限らんからな」
「えっと、晴れていないとダメなんですか」
反射的にそう尋ねると、老婆は、何をそんな当たり前のことを、と言わんばかりの表情を浮かべた。
「九十九草は、冬と春のちょうど境目であるこの時期の、晴れた満月の夜にしか種を植えられないのさ」
そんな植物があるなんて、今まで見たことも聞いたこともなかった。
「九十九草の名前の由来が分かるかい」
少し考えて、やはり首を横に振る。
「普通の植物は日の光で育つ。だが、九十九草は満月の光で育つ。満月を九十九回数えて、ようやく芽吹く。そしてその晩、1度だけ花を咲かせる。だから九十九草というのさ」
「1度って……それだけ待っても、その1度だけしか咲かないんですか」
「あぁ、そうさ。しかも、1回でも満月を逃せば、もう2度と咲かない。それが、九十九草がこれだけめずらしい理由なのさ」
そこで、老婆の話が途切れた。
「それであの……そんなにめずらしいものを、なぜ私に……」
ずっと聞きたかったことを、ようやく尋ねた。
「そうだ、それを言いそびれておった」
老婆が改まったように、コホン、と咳払いをして、それからこちらを見た。
「お嬢さん、あなたは、今宵私が見た中で、唯一あの満月を見上げておった」
そう言われて思い返してみると、確かに今日、この通りに差しかかるまで、私は満月を見上げながら歩いていた。晴れ渡る夜空で大きく輝きを放つこの月が、今日の私の夜道のお供だった。
「こんなに美しいものがあるというのに、人は下ばかり見て気がつきもしない。そんなもったいないことがあるだろうか……もし、この満月の美しさに気がついた人がいたならば、その人にこれを託してみたいと思った——」
彼女がまた空を見上げる。
「満月の度にこの鉢植えに光を与えることは簡単ではない。時に、自ら光を求め、探し回らなければならないかもしれない。そして、それを九十九回、続けなければならない。そこまでできるかどうか、それは育てる者の心次第なんだよ」
「育てる者の、心……」
老婆が頷く。
「九十九草の話を聞いて、お前さんは率直にどう思ったかい」
唐突な問に、考え込む。
「最初は、不思議な話だと思いました。でも……でも今はすごく興味があります。九十九草がどういうふうに育ち、どんな花を咲かせるのか、自分の目で見てみたい」
私がそう言うと、老婆が小さく笑った。
「なら、きっとそうしてくれ」
私の手を取った老婆が、その手のひらに種の入った包を握らせる。
「でも……」
「おそらく、わしにこれを育て上げることはできんだろう。この年寄りは、次の満月を見れるかも分からんのだよ。だから、お嬢さんに任せたいんだ」
目の前に、鉢植えが差し出される。
私は、覚悟を決めて、手を伸ばした。鉢植えと一緒に、彼女の思いも受け取る。
「九十九草は、この上なく美しい花を咲かせるそうさ」
満月を見上げ、老婆が言う。
「いつか、私がその花を咲かせたら——その時は、」
「あぁ。待っておる」
3/1/2025, 8:51:37 PM