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佐々木先生が病院を辞める日がすぐそこに来ている。
そうなって初めて、私は寂しくて仕方ないことに気がついた。



寂しさ     



小児科医の佐々木先生が開業するクリニックの誘いを「外科看護の勉強を継続したい」と断った私。
だけど実際には、4月から小児科病棟に配属された。
まぁ、総合病院の看護師本人の希望なんて、通ったり通らなかったりっていうのは、経験上よく知っている。万年人手不足の業界だから、経験年数4年目で配置換えは普通のことだし。そう思っていたけど、そればっかりではないことを、小児科病棟の看護師長から聞いた。
「宮島さん、外科よりも小児看護が向いているよ。子どもたちも宮島さんに懐いていたし。佐々木先生も小児看護を勉強してくれたらなぁって仰っていたのよ」
……佐々木先生。
嫌いじゃない。
寧ろ、外科の浅尾先生を忘れられたのは、佐々木先生のおかげ。
いつだって穏やかで、大人の包容力を持っていて、私だけじゃなくて、皆んなに優しくて、仕事への情熱があり、私へも……


職員食堂でAランチを食べていると、佐々木先生がトレーを持って空いてる席を探しているのがわかった。それに気づいた同僚は佐々木先生を呼び寄せ、自分は食べ終わったからと席を立ってしまった。
「なんか悪いことしちゃったな」
同僚を目で追いかけつつ、「でも嬉しいな」と笑ってる。
私よりも10歳も年上で、大人の包容力たっぷりな人なのに、ふと見せる子どもっぽい素直さが可愛いなんて。ずるい。
「宮島さん、杏仁豆腐食べる?」
「…いただきます」
「はい」
検食のデザートをお礼を言って受け取る。
こんな日々はもう残り少ないんだと思ったら、急に、本当に急に寂しくなった。


佐々木先生は今月末にこの病院を辞めて、地元の長野県へ帰って、そこで小児科クリニックを開業する。
先生がこの病院に出勤する日はもう、残りわずか。


杏仁豆腐のスプーンを握ったまま、ゆらりと視界が滲んだ。
「宮島さん?」
佐々木先生の気遣わしげな声がする。
「あ、なんでもないです。いただきます」
鼻声になった。やだな。先生は絶対に気づいてる。職業柄と細やかな性格が相まって、小さな変化を見逃す人じゃない。
それに…私のことは特に。好きだからわかるよ、と言ってくれた先生の声を思い出す。
「…今日、仕事終わった後、何か用事ある?」
「え?」
「ラーメン、食べにいかない?」
先生の顔を見ると、ラーメンという言葉に似つかわしく、真剣な顔をしている。
「僕が食べに行きたいんだけど、ダメかな?」
真っ直ぐに見つめる瞳がとても綺麗で。吸い込まれそうなほど、綺麗で。
ダメじゃないと首を振ったら、良かったと先生が笑った。


ラーメン屋を出て、夜道を2人で歩く。
口数の少なくなった私に佐々木先生は気づいているだろうけれど、何も言わない。
こんなふうに2人で歩く夜は2度目。最初は浅尾先生に終止符を打たれた時だった。2度目が、今夜。3度目はもう……
指先が触れた。と思った瞬間、先生に手を握られ、そのまま先生のコートのポケットの中へ。
「嫌なら…」
嫌な訳なかった。
佐々木先生と手を繋ぐのは、嫌じゃない。
浅尾先生に終止符を打たれて哀しくて泣いた夜、私は佐々木先生の温もりを頼りに歩いた。
私からも握り返すと、先生が少し驚いたのがわかった。それが新鮮で、笑いを溢す。佐々木先生も少ししてからちょっと笑って、イルミネーションが輝く街を散策する。
---デートみたい。…って思ったら、失礼かなぁ。
2人っきりで、手を繋いで、笑い合って。デートみたいって思っても良いですか?直接尋ねる勇気はなくて、心にそっとしまい込む。


佐々木先生が前を見据えながらポツリと呟いた。
「自分で決めたことだけど、地元に帰るのを躊躇いたくなるね」
「先生?」
「宮島さんと過ごす時間が楽しすぎてさ。僕はキミのことを心から応援してるのに。その想いに嘘はないのに」


小児科病棟で働きだしてから。
外科小児科混合病棟のときとは異なり、難しい病態の患児の担当も付くようになって、混合病棟で働いていたときよりも責任が重くなった。
なかでもリーダー業務はまだ慣れなくて大変で。だけど、先輩や同僚の小児科看護師に助言をもらいながら頑張れている。
凹んだりもするけれど、さりげなく見守ってくれたり、教えてくれたり、時には助けてくれたり……佐々木先生には気をかけてもらっている。
迷惑をかけていると思うのに、佐々木先生はいつだってよく頑張ってるね、できることが増えたね、一緒に仕事ができて楽しいよ、と笑ってくれる。私はそれに、救われている。


過去、佐々木先生は地元で開業するクリニックに、私と働きたいと言ってくれた。小児看護に携わって間もない私の将来を期待して、熱心に誘ってくれた。すごく嬉しかった。すごくすごく嬉しくて…でも、断った。
私はそのとき、浅尾先生のことが好きだった。そんな私が佐々木先生の元へ行って、先生に期待させて傷つける結果になってしまうのが嫌だったから。

今は、もう、浅尾先生のことはなんとも思っていない。
浅尾先生の想いが過去のものになったとき、佐々木先生はもう一度私と働きたいと改めて誘ってくれた。
だけど私はまた断った。
リーダー業務もできない状態で佐々木先生の元へ行っても、迷惑をかけてしまう。
もっと小児看護の経験を積んで、せめて、病棟のリーダー業務を独り立ちできるくらいには仕事ができるようになりたい。
「そっか。僕が失念してた。キミがすごく努力家で頑張り屋だってこと」
「先生…すみません。誘ってくださって、すごくすごく嬉しかったです。本当に嬉しかったんです。だけど私、もっと病棟の経験を積みたくて…」
頭を下げる。誠心誠意誘ってくださった佐々木先生に、感謝と謝意が伝わるように。
「顔を上げて。宮島さん、キミはとても良い決断をしたよ。クリニックはいつでも働けるから。病棟で、入院している子どもたちのためにチカラを貸してあげて。キミはとても良い看護師さんだから」
「先生…ありがとうございます」
「うん。頑張って。僕はキミのことをずっと応援しているよ」
「ありがとうございます」
肩にポンと置かれた大きな手から伝わる温もりに感謝した日を私は忘れられないだろう。


---別れの日が近づいた今。
佐々木先生と共有する出来事がこれで最後だと思うたびに、ひたひたと寂しさが押し寄せてくる。
病院に残ると決断したのは自分なのに。

「私も…先生と過ごした日々……とても…楽しかったです。すごく…」
正面を見て歩いていた先生が立ち止まり、私に向き直った。
私が…泣きそうになっているから。
「あ…泣いてないですよ、私…」
「…今にも泣きそうだよ」
先生が私の両頬を優しく両手で包み込んだ。
「僕と離れるの、寂しい?」
囁くような声が優しい。抗えなくて、頷く。
「僕も寂しい」
頬を包んだ両手が背中に回って、優しく抱きしめられる。
あまりの安心感にほぅっと息を吐く。
「ごめんね。寂しがってくれて、喜んじゃって」
「先生、素直すぎます…」
「うん、ごめんね。来月以降、僕が地元に帰った後、もしもキミが寂しかったら寂しいって連絡してね。僕もきっと同じ気持ちだから」
「先生…でも…」
先生は優しいから私を心配されるんじゃないですか?
「キミのことがわからないまま過ごす方が、僕は辛いよ。キミが辛いときは、寄り添いたいから。何度でも、何時間でも寄り添いたいから」
耐えていた涙が溢れ出す。
佐々木先生の前で、泣くのを我慢できるわけなかった。
「寂しさを受け止めに、会いに行くよ。新幹線で1時間半。近いよね」
「…近いです…私も会いに行っても良いですか?」
「もちろん。待ってる。会いに来て」
チカラ強く抱きしめられた。


涙が止まってから、先生の車に乗って、自宅マンションまで送ってもらう。
シートベルトは外したけれど、なんとなく立ち去り難くて…私はバッグの持ち手をギュッと握った。
「宮島さん、思い出をひとつ作ろうか」
「え、今からどこかに…」
顔を上げた私の唇に柔らかな感触。
キス…
ビックリしていると、目元にもキスがふわりと落とされた。
「今夜はありがとうね」
「っ、はい…」
ビックリし過ぎて動けないでいると、佐々木先生が自分のシートベルトを装着した。静かな車内にベルトのロック音が大きく響く。
「帰らないの?僕の部屋に連れて行っちゃうよ」
…っ。
冗談混じりなのか本音なのか判別できない声音と瞳。
「あ、ありがとうございました」
慌ててドアを開けて降りる。
「僕も。最高の想い出をありがとう」
先生は微笑みを私に焼き付け、自動車は遠ざかっていった。


部屋へ入ってから、コートを脱いでバンガーにかける。姿見が目に入って、唇に目がいく。
「思い出をひとつ作ろうか」
今からどこかに出かけるんですか、と尋ねる途中で、優しく唇が重ねられた。今夜は抱きしめられたりもして…
先生も寂しいと伝えてくれた。寂しくなったら同じ気持ちだから言ってね、とどこまでも寄り添ってくれる。
佐々木先生の愛情のおかげで今夜はもう泣かずにいられそうだけど…

先生の寂しさは埋められていますか?
先生は愛を与えるばかりで…

好きです

キスされた唇で形作ったら、なぜか涙がこぼれ落ちた。




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12/21/2024, 6:43:11 AM