芝草

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『最悪』


それはご主人の口癖だった。

日課の散歩時に、ボクがつい走り出したら。
「そんなにリードを引っ張らないでよ、最悪!」

水浴びの時に、ボクが思いっきり体をブルブルしたら。
「私までずぶ濡れじゃない! 最悪!」

「最悪」って言う時のご主人は、たいていキレイな身なりだった。
だけど、たいてい三角形のとんがった目をしていた。
そして、こういう時のご主人には、ボクはあまり近寄らないように気をつけている。部屋の隅で、尻尾をすぼめて過ごすのが得策だ。

だけど、何事にも例外はあるわけで。

その日のご主人は帰宅直後から、妙にしょっぱいニオイを漂わせながら「最悪!」って言ってた。

ボクは扉の隙間から、コッソリ玄関を覗き見る。
そこでは、黒いスーツ姿のご主人が、靴も脱がずに背中を丸めて三角座りをしていた。

ボクはゆっくりご主人の前に回り込み、その顔をじぃーっと見上げる。

思った通り。
ご主人の顔は、次々と溢れる涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。

今日は何が「最悪」なのか、ボクには全然わからない。
だけど、ボクは知っている。ご主人がこの顔で「最悪」の時にどうしたらいいのかを。

ボクは尻尾を振りながら、ご主人の顔を思いっきり舐めた。
口いっぱいに、苦くてしょっぱいご主人の涙の味が広がった。
一応言っておくと、全然美味しくはない。
むしろ、一言で言うなら「最悪」だ。

でも、ほら。

「もー、最悪」
そう言いながらご主人は、ボクのよだれまみれになった顔で、ヤケクソみたいに笑いだす。

そうして、ボクをぎゅうっと抱きしめたご主人は、掠れた声でボクにだけささやいた。
「でも、ありがとね。大好きよ」

6/6/2023, 2:05:58 PM