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『優しさ始めました』
 いつも行く食堂に、そう書かれたノボリが置かれていた。
「はあ、やっと始めたのか……」
 どれだけこの日を待ちわびたことか……

 冬は人肌が恋しくなる寒い季節。
 だが人肌が無くても人は生きていける。

 同じように人は優しさが無くても生きていける。
 だからといって優しさが無くてもいいわけではない。
 そう言った理念のもと、この店は毎年冬の初めに『優しさ』を始めるのだ。

 今年の冬は、暖かい日が続き冬がなかなか来なかった。
 出すタイミングを逃して、そのまま忘れていたのだろう。
 あのとぼけた店主の事だ。
 そうに違いない。

 俺は扉を開けて店に入る。
「店主さん、張り紙見たよ。やっと優しさ始めたんだって?」
「ははは、すいません。
 どうにも優しさがなかなか入荷しなくって……」
「忘れていただけだしょ?」
「はは、バレましたか」

 店主は笑いながら、俺を先導して空いている席に案内する。
 この店は小さいので、週末以外は店長一人で切り盛りしている。

 案内された席に着くと、そこには腰痛軽減クッションが置かれていた。
 昨日は置かれてなかったので、わざわざ用意してくれたのだろう。

 腰痛に悩まされる俺のために置かれているクッション。
 先日、腰痛が辛いと言ったことを覚えていていてくれたらしい。
 このさりげない優しさが憎い。

「外は寒かったでしょう。ご注文の前にこちらを」
 そう言って差し出されたのは、ホットミルク。
 受け取って飲めば、体の芯から暖まっていく。
 優しさが体の隅々までいきわたる。

「ご注文が決まってますか?」
 店長は頃合いを見計らって注文を聞いてくる。
「今日は中華定食で」
「かしこまりました」
 そう言って店長は店の奥に入っていく。
 料理を作るために、厨房へいったのだ。

 料理が来るまで時間があるので、店の中を見渡す。
 すると暖炉に火が入っているのが見えた。
 昨日来たときは点いてなかったので、今日からなのだろう。

 冬の間、ずっと点ければいいのにと思うのだが、なかなか掃除が面倒らしい。
 この暖炉は、店で『優しさ』をやっている間だけの期間限定のものなのだ。
 暖炉から何か優しさ的なものが出ている気がする。
 掃除が面倒でも、『優しさ』をやる間だけは点けるというのは納得である。

 どれだけ見入っていたのだろうか、店主が店の奥から出てきた。
「お待たせしました」
 目の前に料理が並べられていく。

「今、『優しさ』が期間限定で100%増量しています」
「見た目変わんないけど」
「大丈夫ですよ。きちんと入ってますから」
「本当?違ったらSNSで炎上させるから」

 もちろん本気じゃない。
 優しさなんて入っていなかったところで、分かる人間なんていない。
 店長もそれを分かっているので、一緒に笑う。

「こちらサービスになります」
 そう言って、店長はあるものを置く。
 中華定食のデザート、俺の大好物の杏仁豆腐だ。
 これ自体は、いつもサービスで付く。
 だけど今回は――

「こちらも、優しさ増量中となっております」
 目の前に出されたのは、いつもより大きめの茶碗に入った杏仁豆腐。
 だがこれはこの期間だけのスペシャル杏仁豆腐なのだ。
 これがとんでもなくうまい。

 それもそのはず、店主が食材からこだわった、スペシャルな杏仁豆腐。
 店主のお客様のためという『優しさ』が暴走した結果の杏仁豆腐なのだ。

「ありがとうございます」
 俺は心の底からの感謝を述べる。
 これを毎年楽しみにしているのだ。

 デザートを早く味わうため、定食を手早く食べる。
 優しさどころか、味もまともに分からない。
 定食を食べ終えて、一度深呼吸する。

 スペシャルな杏仁豆腐なのだ。
 慌ててはいけない。

 しっかり精神を落ち着かせてから、ゆっくりと杏仁豆腐を口に運ぶ。
「やっぱり、優しさが入っていると違うな」
 杏仁豆腐は優しさに溢れた味がした。

1/28/2024, 9:29:57 AM