Mey

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23歳の私の誕生日、交際中の彼がバースデーケーキの箱を抱えて私の部屋へやって来た。

いつ言おう…

そんな私の悩みなど知らない彼は、笑顔で私にケーキの入った箱を開けさせる。中には2〜3人用の小さなホールケーキが入っていた。
私の好きな、フルーツタルトのケーキ。チョコレートのプレートには私の名前とhappy birthdayと筆記体の流れるような文字。

交際を始めた大学生の頃から、彼は毎年お祝いしてくれている。

ケーキに刺したキャンドルの炎を吹き消し、2人でホールケーキを食べ切る。
「2人とも甘いものが好きで良かったよね」なんて、過去、笑顔で食べていたのに、今の私は少しだけ胃もたれ気味だ。


ケーキを食べ終わると、彼はいつの間にか背中の後ろへ隠し持っていた箱を自分の両掌に乗せて私へ差し出した。

「結婚してください」

彼の声は少しだけ震えている。
言い終わって引き結んだ唇と私を見つめる瞳が、私の返事を待って揺れる。


彼に、私との結婚の意思があることは気づいていた。

大学生の頃、結婚するなら私みたいな人が良いと何回か伝えてくれていた。私は小さな声で「うん、私も」と返事をしたこともある。
手を繋いで幸せだと思ったあの頃。

…だけど、私の気持ちは揺らいで、そして変わっていった。


社会人として働くようになって、彼と働き方に大きな差があることが気になってしまった。
総合病院の看護師として働く私と、中小企業に勤めるサラリーマンの彼。
平日8時間労働、残業なしの彼と、残業がデフォルト、夜勤や土日出勤が当たり前の私。

不規則な勤務体系の休日を休息に当てたい私と、土日は一緒に過ごして欲しい彼。
私が頑張らなければ、不満に思う彼。


彼のことは好き。
ライブの楽しさを教えてくれて、サーキット場へ行ってモータースポーツの迫力も教えてくれた。

愛し合う夜が愛を強くすることも教えてくれた。


彼は今でも、私との結婚を考えてくれている。

新卒でこの総合病院に就職したとき、本当に仕事のできない看護師だった。
それでも勉強して、先輩看護師に叱られても教わりながら、なんとか職場の人や患者家族に認められるようになった。

いずれ辞める日が来るとしても、今じゃない。
あと数年はこの病院を辞めたくない。
スキルアップするために、病棟看護師を辞めたくない。


だけど彼が満足できる結婚生活を送るためには、私が職場を変わらなければいけない。
基本給や手取りが減って、収入が減るってわかっているのに。


「ごめんなさい」

彼が差し出した掌に乗る小さな箱を、そっと、だけど確かな意思を持って押し返す。
それをされた彼の瞳が哀しげに揺れる。

「どうしても…受け取れない?」

「うん…ごめんなさい」


婚約指輪だとも結婚指輪だとも言われていない箱を彼の掌に乗せたまま、私を見つめて懇願した。

「でも…開けてみて」
「できないよ。ごめんなさい」

中身の見えないその箱を、私は持つこともしなかった。

悲しんでいる彼を直視できずに、私は自分の身体を抱きしめる。

彼はため息を吐いた。
私が頑なに断ったとき、梃子でも動かないと彼は知っているからだ。


彼は小さな箱が入っていた紙袋からラッピングされた袋を出してそのリボンをするりと解き、淡いピンク色の毛糸で編まれたマフラーを取り出した。

彼にマフラーをするりと首に巻かれると柔らかな風合いで暖かかった。
淡いピンク色…彼に私はこんなに可愛く映っていたんだと思うと、申し訳ない気持ちになった。


「…今日は帰るよ。誕生日、おめでとう」
彼の声には疲れが滲んでいた。

「…今までありがとう」
結婚したい彼の時間をこれ以上奪いたくなかった。
彼が私を驚いて見つめて、何かを言おうとして唇が震える。だけど彼は言葉を発することなく、顔を横に向けて視線を逸らせた。

私の声は震えていたけれど、彼にきっと私の想いは伝わった。


彼は私が受け取らなかった箱を乱暴にバッグに放り込んで、玄関へ速足で駆けていった。

彼は傘立てにぶつかったのだろう。傘立てが倒れた音が大きく響く。その音に重なるように玄関ドアが閉まる音も重く響いた。


ごめんなさい。

もう彼に謝罪の言葉は聞こえないけれど、私はまた呟く。



私が受け取らなかった箱。
彼も二度と開けない箱にしてしまったのかもしれない。





秘密の箱

10/25/2025, 10:05:33 AM