のなめ

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俺は「優しさ」がわからない人間だった。
生まれた時からなのか。何か成長の途中で起きた変化なのか、何もわからない。

ただ人に対してやさしさを持っていないわけでは無い。自分でやさしさなどと言っているが、これが本当の優しさなのかはわからない。

優しさってなんだろう。そう考えると頭が痛くなる。何か特定のことを考えると頭が痛くなるのは、昔にトラウマがあったり、何か体が拒絶している証拠なのだ。トラウマになるような記憶はないのだが。


暑い夏の夜だった。子供が小学生の夏休みということで、実家に帰省しているのだが、私の実家は昔から暑かった。その日は何かいつもと違う感じがするほど、特に暑かった。

なかなか寝付けず、夜中の2時を回った頃だろうか。少し気分転換?になればと思い、トイレへ向かった。トイレを済ませ、廊下を歩いていると、途中の部屋の電気がついていることに気づいた。ほんの出来心で中を覗くと、そこには高齢男性の姿がある。私の父、私の子供のおじいちゃんだ。何か本を読みながら、ぶつぶつ言っている。だが、そこに父がいたのはほんの少しの時間で、すぐにそそくさと出て行った。本は置いて行ったようだ。

もちろん普通の人ならば、ここで、本は読まないべきだろうか、と悩むだろうが、私は一瞬も迷わずその本を取りに部屋へ入った。開ける。


「きようからにっきをつけます 
11月3か 
きようはあさからゆうえんちへ行きました じえっとこーすたーにのりたいといったら、お母さんにおこられました おばあちゃんはなにもいいませんでした。

11月7か
きようはまちのおまつりにいきました おじいちゃんとおばあちゃんとお母さんとぼくで行きました。
またおこられていやでした

11月9か
いえでおままごとをしていたら、お母さんにけられました うるさいとなんかいもいってなんかいもぼくをたたきました。いたくてなみだがいっぱいでました
                        」

私は驚く。こんなことをされている子供がいたのか。
だが、ここまで読んだならもう止めることはできない。
ページをめくる。

「11がつ10か
きようはともだちとあそびました。ともだちにけられたというと、ともだちはかわいそうといってくれました。
やさしいともだちで、ぼくはうれしかったです

11がつ12にち
お母さんにまたけられました。かおをけられて、このにっきをかくのがむずかしいです ともだちにけられたことをはなしたとお母さんに言ったら、お母さんは、はしってそとにいってしまいました。

11月16日
ともだちがひっこしてしまいました。きのういっしょにあそんでたときはおしえてくれませんでした。ばいばいをいいにいこうとしたら、お水よりもドロドロしてるものと、マッチぼうをもっていたお母さんにとめられました。それでも行こうとしたら、きようはなぐられてしまいました
                        」

頭が痛い。うう苦しい。

ページをめくり続ける。

「11がつ26にち
お父さんがいえにきました。なにかお母さんとはなしていました こえがおおきくて、おこってるみたいだったので、お母さんにきいてみたら、はさみをむけられました。はさみはもうなんかいめかわかりません。
                        」

は!私は横腹を触る。確かここには縫った跡があったはずだ。はさみ、ハサミ、鋏。

「12がつ16日
お母さんににっきをかいてるのがばれちゃいました。さいごになるので、いっぱいかきたいとおもいます。ぼくは今へやにとじこめられて、ごはんはたべれてません。しぬのかもしれないっておもうとなみだがでます。でももうなみだはでません。なにもかんじなくなりました。
それじゃあ、ぼくはこのはさみをつかって、あのひと
                        」

動悸が荒くなる。私の母は今どこにいるのだろう。なぜ今まで母のことを気にしたことがなかったのだろう。この日記の持ち主は私だ。私は確信した。それと同時に、ある不安が残る。はさみ。


優しさとは、本来生活の中で身につけていくものだ。虫でも、自分の周りの植物でも良い。それらを大切にし、それらを想うことで優しさは身につくと言えるだろう。

しかし、それらに触れることが出来ず、家でも、外でも殴られ蹴られ、罵詈雑言、「生まれて来なければ」。
どうしたら優しさが身につくのだろう。「優しさがない」ということは私が死なないために身につけた術なのかもしれない。母をこの手で終わらせたのもその力のおかげなのかもしれない。







1/27/2024, 3:04:24 PM