猫田こぎん

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#落ちていく

 体が真下に引っ張られる感じがして、手をつこうと伸ばした瞬間、目が覚めた。
 落ちていく夢を見るのはこれで10日連続だ。
 夢占いでも検索してみようか。何か悪いことが起きるのではないかと、少し怖い。
 目覚めも悪いし、いつも落ちていくときに起きるから、落ち切った後のことがわからない。下へ到達したときに何が起きるのか、何があるのか。知りたいような、知りたくないような。

 ランチタイムにそんな話を櫻子にすると、軽い調子で「一度落ちてみたら?」と言われた。
 あまり深刻には受け取ってくれていないようだ。
「別に本当に高いところから落ちて死ぬわけじゃないんだし。夢でしょ?夢ならどうなっても大丈夫じゃない」
「確かに一理あるけど、私は怖いのよ」
 アイスコーヒーをかき混ぜながら、櫻子は「ふぅん」と鼻から抜けるような音を出して、「そういえばさあ!」と無理やり話題を変えた。
 これ以上は話を聞いてくれなさそうなので、私も黙って櫻子の彼氏の話にちょっとうんざりしながら耳を傾けた。

 他の人に相談しようにも、同じような反応をされるのではないかと躊躇してしまい、11日目の夜が来た。
 眠るのが怖いが、そうも言っていられない。明日も会社がある。
 そうだ、寝る環境が悪いのかも。
 私はいつものベッドの下に布団を敷き、寝方を変えてみることにした。ベッドから落ちそうになるのを、夢で見ているのかもしれない。
 部屋もいつもは小さな枕元灯を点けるけれど、それも消して真っ暗に。
 これで落ちる夢を見ないといいな。

「落ちるっ……」
 自分の声で目が覚めた。身体中、汗でびしょびしょになっていて気持ちが悪い。
 恐怖で心臓がバクバクいっている。
 ハアハアと息を整え、布団の上に上半身を起こした。
 布団でも駄目だったか。今日も落ちていく夢を見てしまった。
 夢を見る、というと正しくないかもしれない。
 夢の内容は覚えていないのだ。ただ、落ちていくという感覚で目が覚める。
「いい加減にしてほしいな……」
 私が何をしたというのか。つい独り言が口から出る。
 そのとき、枕元の携帯電話が鳴った。
 ディスプレイを見ると、彼氏のミキオからだ。
「おはよー。今日の夜って時間ある?」
「おはよう。残業が急に入らなければ大丈夫」
「そっかー。今夜飲まない?」
 ミキオと付き合い始めて1年半。友達の付き添いで出た合コンで知り合った。10歳も年上とは思えないほど若々しい営業マンだ。
 ミキオはベタベタした付き合いを拒むタイプで、うちに泊まり込むこともほとんどないし、向こうの家に行ったこともない(どうやら実家暮らしのよう)。たまにお互いの仕事終わりに会って飲む程度。それくらいのライトさが私に合っていた。
「あんまり飲みたい感じでもないけど。うん、いいよ。久しぶりだもんね」
「え、なに?体調悪いとか?大丈夫?具合悪いなら止めるけど」
「大丈夫。ちょっと夜眠れないことがあって。いいよ。いつもの店ね」
 電話を切ってディスプレイを見ると、ミキオからのLINEが何件も入っていた。痺れを切らして電話してきたのか。
 汗はすっかり引いていた。気分も少し良くなったかな。一つのびをして朝の支度に取り掛かった。

 ミキオと久しぶりにお酒を飲んで、いつも以上に酔ってしまった。
 これだけ酔って寝たら、落ちる夢も見ないかもしれない。
 シャワーを浴びて、今日もベッドの下に布団を敷いて潜り込んだ。落ちる夢は見ませんように。
 しかし、淡い期待は打ち砕かれた。
 また、落ちている。ああ、落ちていく。
 私はグッとお腹に力を入れ、落ち切ってみる覚悟を決めた。「起きない」と眠っているときに思うなんて不思議な話だが、いわゆる明晰夢というやつなのかもしれない。
 暗くて真っ黒な何もない空間を落ちていく。
 来るであろう衝撃に体を固くしていると、少しして背中からバン!と着地した。
 痛みはなかった。夢だから?
 恐る恐る体を起こし、暗い中で目を凝らした。
「ヒィ!」
 隣に女性がいた。髪の毛の長い女の人が私の隣に座り、ほぼ触れ合う距離でこちらを見ている。
 あまりの恐怖にその女の人から這って逃げた。
「ミ……オ…よ……ほ…で…」
 何か言ってる。聞き取れないが、くりかえし同じ言葉を低い声で呟いてるようだ。
「ミ…オ…キ…ミ…」
「ミ…ミキオ?」
 私が問い返すと、女の人は顔を上げた。
 真っ白い肌に赤い口紅。眼窩は真っ黒で、口角がキュッと持ち上がった。
 その瞬間、自分の絶叫で目が覚めた。
 ゼエゼエと息が荒くなっている。汗もびっしょりと全身にかき、二日酔いの頭痛と相まって最悪な状態だ。
 よろよろと体を引き起こし、シャワーを浴びた。
 穴の底にいた女はミキオと言っていた。ミキオと関係があるのだろうか。まだ心臓がバクバクと早鐘を打っている。
 シャワーを浴びてもあまりスッキリしなかった。
 のろのろと体を拭き、ふと洗面所の鏡に目をやると、私の代わりに知らない女の顔が映っていた。
「だ、誰?」
 驚く間もなく、ひどく青ざめた自分の顔に戻った。
 穴の底にいた女の人とは違う。ショートボブの可愛らしい女性だった。
 全裸のまましゃがみ込み、気鬱なまま今日の仕事は休もうとだけ思った。

 翌日。私はミキオと別れた。
 とりあえずミキオ絡みで恐ろしい目に遭ったのだろうし、少なくとも私の知らない2人の女性が関わっている。
 別れたいと申し出たとき、ミキオは明るく「そっかー。でも飲み友達として引き続きよろしくね」と笑った。むろん、それも断った。
 そして、ミキオと別れてから落ちていく夢は見なくなった。
 体調も上向きになり、気持ちが晴れやかになると、家全体がなんだか汚いことが気になり出した。
 悪夢を見るようになってから部屋の掃除がおざなりになっていたっけ。
 ミキオからもらったもの、思い出の品、ほとんどないけど、それも全部処分した。
 ベッド周りも綺麗にして、シーツやリネンも全て刷新。
 断捨離って気持ちいいなと思いながらゴミを片付けていると、見慣れない赤い花のついたかわいいピンが出てきた。
 私は髪が短くてピンなど使わない。この部屋に遊びに来る友達の中にもこんな趣味の人はいないし。
 灯りにかざしてしげしげと眺めていると、背筋が急にゾッとした。
 ピンに長い髪の毛が一本付いている。
 穴の中にいた髪の長い女の人を思い出した。 
 そのまま捨てて大丈夫かな。お寺とか?何かお焚き上げとか?
 慌ててティッシュで包んで、少し逡巡した後、ゴミ袋の奥の方へぎゅっと押し込んで口を結いた。

 後日、櫻子とお昼ご飯を食べているとき、こんな話をした。
「ねえ、そういえば、落ちる夢って見なくなったの?」
「うん。おかげさまで」
「そっか。良かったねー。なんかその話を純くんにしたら夢占い?とか?調べてくれて。変なことに巻き込まれてるときに見るって書いてあってさ」
「ああ、確かに何かに巻き込まれるところだったのかも」
「なになに?彼氏と別れたことと関係ある?」
「あるのかもしれない。櫻子はミキオと会ったことなかったから知らないよね」
「ミキオっていうんだ。あー、同姓同名かもしれないけど、同じ名前の人のことで、怖い話聞いたよ」

 35歳の庄司幹夫は大手企業の優良営業マンで、3歳年下の妻と2歳の娘、4歳の息子の4人暮らし。家族仲もよく、どこから見ても絵に描いたような幸せな生活を送っていた。
 だが実は女癖が悪く、パパ活で知り合った女性達や、独身と偽って付き合っていた2人の女性とも妻に内緒で関係を持っていた。
 ある日、それが妻に露見し、妻が交際相手の女性たちに警告したため、一度は女性達との関係を清算した。それが1年前。
 しかし酒癖、女癖、手癖、癖と名のつくものは容易に止められるわけがない。
 妻に土下座までして関係を修復したものの、男はまた同じような愚行を繰り返し、独身と偽って婚活パーティーで知り合った女性が真実を知って自死を選んだ。
 
「でもね、まだ女癖、治らないんだって。いっそ離婚して独り身になればいいのにね」
 櫻子が眉を顰めて口を尖らせる。食べないままのパスタが伸びてフォークで突かれてているのを見ながら、私は総身から血の気が引いていた。
「浮気癖って治らないのかなー。奥さんも知らずに付き合ってた女の人もかわいそう。ねえ、そう思わない?」
 ぎこちなく頷きながら、私はカラカラの口のまま言った。
「ねえ、その亡くなった女の人って、髪の毛長かったりしたのかな」
「えー。そこまでは知らないー」
 そうだね。知らない方がいい。知らなくていい。
 もう落ちていく夢は見ないのだし、私は記憶に蓋をすることにした。
 ふと携帯がブルブルと震えて電話がかかってきたことを知らせてきた。
 ディスプレイに「ミキオ」の文字。
 忘れてた。急いで着信拒否にした。
 真相はわからないまま、冷めたカルボナーラを無理やり頬張った。
「それとね、落ちていく夢は、落ちきる前に目が覚めるのは悪いことじゃなくて、何かあるのを回避できるって意味もあるらしいよ。落ち切っちゃえばなんて言ってごめんね」
 櫻子が悪びれるふうもなく笑うのを、私は乾いた笑いで返した。
 ミキオを心底好きになる前で良かった。
 話し終えてた櫻子はデザートのアイスを食べながら、いつものように自分の彼氏の話を始めた。
 これで良かったのだと、思うことにしよう。
 知らなくていいことは、そのままに。


2023・11・24 猫田こぎん


 




11/24/2023, 1:57:00 AM