『夢を見ていたい』
優しい香りがする。馴染みのある無垢な木材の香りに混じって、焼き立てのパンの香り。私はそれを広い机の上に突っ伏して、微睡みながらも感じている。
サクサクと、パンの間を刃物が走る音がする。その側ではくつくつと小さく茹だる音が響き、間では見知った気配が忙しなく動く。
――ああ。これは夢だ。
いつか見た遠い記憶。懐かしい日常。その再現。脳が勝手に作り出している幻。きっとそうなのだと、すぐに分かった。
だって。貴方はそこに居るはずがないから。
目を閉じたまま、瞼の裏にその人を思い浮かべる。ある日忽然とその姿を消してしまった兄。淡いクリーム色の艷やかな髪を三つ編みにして、何時だって柔らかな気配を纏っていた唯一の肉親。何者にも変えられない、ただ一人の兄。
けれどももう、瞼の裏に浮かぶその面影ですらも朧気だった。あれからどれだけの時が経ったのだろう。そんなことすらも、どこか夢の彼方に置き忘れてしまったかのようだ。
きっともうすぐ、声が掛かる。食卓机に突っ伏す、寝ぼけ眼な妹に対して。いつもの調子で、仕方ないなとでも言うように。朧気な記憶の中でも、そのぬくもりだけは覚えていた。
起きたらこの優しい温度は消えてしまうのだろうか。そんなことがふわりと過ぎる。
今はまだ、この微睡みの中に身を委ねていたい。遥か彼方に置いてきてしまった思い出に、浸り直すかのように。
残酷なほどの優しいぬくもりの中で。ただこのまま『夢を見ていたい』と、それだけを願っていた。
1/13/2026, 8:43:26 PM