-ゆずぽんず-

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8年前、仕事で街中のお宅を訪問して調査やヒアリングを行い、それらの情報をもとに指示書や図面を作成する仕事をしておりました。震災に関連した業務であったことから、現地の方より不満の声や罵声を受けることは日常茶飯事でした。私もまだまだ未熟ですし、二十代も半ばと若いこともありましたから浴びせられる言葉に憤慨する日も、悔しさに涙する日もありました。

そんな中にあっても、この仕事を続けることは私にとってとても重要な事だったと思っています。
過去に自衛官として過ごしたことや、志を持って職務にあたっていたこともありますから、いち民間人として過ごす日々の中でも何かお役に立ちたいという思いはいつも心にありました。誰かの為に何かひとつ微力でもお力になれることはないかと考えているときに、このような仕事と縁を持ちました。

一日の達成目標などもございまして、日々精進してより多く のお宅を回り、より多くの声を聞くために同僚と勉強会などをして効率や作業の質の向上に邁進していました。
この仕事は、一種のサンプリングとしての一面も持ち合わせておりましたし、ご近所様同士で情報共をされているお宅では殊更に注意を払って仕事を進めなければ、あらぬところからトラブルなどに発展することもありました。時には行政の担当者様と共に訪問をして、住民様の意向を可能な限り反映できるようにと調整をすることもあり、とてもやり甲斐のあることでした。


毎日変わり映えのない単調な仕事ではあるものの、決して簡単なものではなく、時には難題に直面したりトラブルに見舞われたりすることもありました。
私たち調査員の中には、現場での調査活動についての基本的な考え方や、作業方法など、大きな隔たりのある者もおりました。そうした面々と衝突することは多々ありましたが、互いに意見を交換することはありませんでした。私や、ともに勉強会などをして向上をと奮闘する同僚は、彼らにしてみればいい迷惑でしかなかったのです。私たちが余計な盛り上がりを見せれば、彼らは周囲に仕事の程度も具合も比較されて、要らぬ誤解を招きかねない。彼らにとってすれば、私たちはさぞ滑稽で迷惑な者として見えていたのではないでしょうか。

私たちの仕事というのは、調査書類を手に住民様を尋ねて簡単な測量や聞き取りを行い、その場で簡単なポンチ絵を書いて写真撮影をする。住民様の希望や要望などを控えて持ち帰り、ポンチ絵を清書して提出。これをもとに行政やJV(共同企業体)が今後の流れや施工方法を決定します。
聞き取りの際、私はできる限り世間話をして住人様の人となりや抱える悩みや問題を聞くようにしておりました。震災後に抱えるストレスも、こうして話を聞いていけば少しは発散できるのではないかと考えていたからこそのことですが、住民様より謝辞を頂くと意味のあることなのだと実感して胸が熱くなりました。

世間話のなかで、ただただ吐き出したい想いや悩み、不満や不安を聞いて寄り添っていくことで今後の暮らしやすさに繋がるのではないかと信じておりました。やはり、訪問時こそ罵詈雑言を受けても静かに話を聞いてみると、怒りを顕にしていた住民様も落ち着いてきます。最後まで親身になって聞き役に徹することで、私たちの仕事はより意義深いものになっていました。なかには本当に危険な場面も御座いましたから、その際には後日改めて行政の担当者と共に伺うことで解決を図るなど、時に困難な場面に直面することもありました。

訪問時に玄関先で訪問理由と以後の作業について説明をすれば、その後は世間話をするのが私の仕事の姿勢でもあり楽しみでもありました。作業中に声をかけて頂くこともあり、そうした時は椅子に掛けて住民様より頂いたお茶菓子や果物に一息つきながら他愛のない話に盛り上がることも御座いました。作業時間の内、長い時には六割が世間話ということも御座いましたが、この頃には図面の仕上げなども含めて余裕のある勤務状況でしたので問題になることはありませんでした。寧ろ、そうした住民様がご近所様にお話をしてくださっていることが多く、別のお宅を訪問すると歓迎してくださるので、とてもスムーズにお仕事を続けられました。

こうして訪問を繰り返しておりますと、住民様の思い出話などを聞く機会に恵まれました。この地に越して来た時のこと、若しくは生まれ育った幼い日々のことや、青春時代のこと。結婚をして子宝に恵まれ、家族と沢山の時間を過ごしたこと。
家を買い、或いは建てたときのこと。振り返れば懐かしくあたたかい思い出や、甘酸っばく、ときにほろ苦い思い出。訪問をすれば、その数だけ話を聞きく。そのどれもが、私がこうした姿勢でいなければ耳にすることもなかったもので、住民様の思い出にあたたかくなる心に触れることもなかったでしょう。そうして沢山の方々のセピア色の記憶を辿る話に胸が高鳴れば、一緒に涙を流すこともなかったのではないでしょうか。



ご高齢の方のお宅を訪問すると、色々なお話を聞かせていただくことがよくありました。孫子の話はとりわけ嬉しそうに話すもので、聞き手に徹する私も自分事のように嬉しく、そしてとても幸せな気持ちになりました。気心知れた知己の話や、ご近所さんの話など同じことを何度も繰り返し話され、くしゃくしゃの笑顔を作るのを見ては、私は自分の祖母や亡くなっている祖父のことなどを重ねていました。

輝かしい記憶やほろ苦い思い出など、これまで本当にたくさん聞いて触れてきました。そして、その中でも戦争や抑留の話は私の産まれる前のことで、壮絶な人生を余儀なくされた方、大切な人を失った方々が体験した話は今でもよく覚えています。


そして、これはあるお宅を訪問した際に涙ながらにお話を聞かせてくださった高齢の旦那様の壮絶で悲しい、そして強く生きて歩いてきた険しい道のりについての話です。

訪問時の私よりもずっと若い、寧ろ幼ささえ残る年頃の頃のこと。


ーー朝起きて身支度を済ませると弟の肩を揺すって起こす。 畑に水をやってから朝食を作る母を手伝う弟の頭を撫でて、眠気に駄々をこねる幼い妹を抱き起こして着替えを済ませる。学校に通い、友と駆け回る、そんな何気ない日常が戦争によって大きく変わってしまった。


友や家族と笑いあって過ごした地元を、故国と家族と大切な人を守るため、故郷を後にした。遠く遠く、戦争でなければ来ることもなかったところで命を削りながら、一日一日を生き延びていた。

激しい戦闘で仲間が減っていくなかでも、僅かばかりの希望にすがり、ただただ帰ることだけを心に踏ん張った。上官の話で、日本が大変だと聞いて居ても立っても居られなくなり焦燥感や悲哀に胸が握り潰されるように苦しくなった。国を、故郷を、みんなをの暮らしを守るためにこんなに遠い所まできた。
泥にまみれ、擦り傷や痣に身体は重く、それでも守って、生きて帰るんだと思っていたのに。意味のあることだと、そう信じていたのに、なぜ日本がそんな状況なんだと悔しさと、やり切れない思いに強く握った拳何度も土を叩いた。




生きて無事に帰還した故郷で目にしたのは、空襲によって変わり果て町並み。家族は、母や弟や妹は無事かと締め付けられる思いに胸が強く早い鐘を打つ。震える足で家へ向か道すがら、よくぞ帰って来てくれたと方方から声をかけられた。おじちゃん、おばちゃん、何も出来なかった。みんなのことを守ってあげられなかったと頭を地面に擦り付けた。
「何を言うか。 建物は崩れたけど生きとるだろう。お前も帰ってきてくれた。ずっと神社参りして待っていたんだ」と涙に瞼を腫らして抱き合った。
家族のことを聞いてみるが、何せ空襲以降はどこも自分たちのことで手一杯で、他の地区のことはまだ分からないと言う。落ち着いたらまた会おうと、手を振って別れ、まずは知人が無事であったことに安堵した。

焼夷弾に焼かれ崩れ落ちた家屋の残骸や、爆弾でも落とされたのか吹き飛ばされたものが瓦礫となって行先を阻む。それを片付ける人、焼け落ちた家の前で肩を落とす人、生きていたんだからと励まし合う人。築き上げてきた暮らしも、積み上げてきたものも、全てなくなった。けれど、すれ違う人はみな、また歩み始めているようだった。

やっとの思いで帰りついた家には誰もいなかった。家だったものは住みになって佇んでいるだけで、なにも言わない。


愛して育ててくれた母。

まだまだ甘え盛の妹も、父や私の代わりに家を頼むぞと託した弟も、いなかった。

来た道を慌てて戻り、空襲の時のことを聞くと、逃げ遅れた人や直撃を受けた人たちがいたこと、その中に、近所に声をかけて回った母たち家族がいたことを聞かされた。母も、弟も妹も、手分けをして皆に避難を呼びかけていたのだという。町角の足の悪いおばあさんを助けたあと、避難をしようとしたときに炎と砂煙、爆音に姿を消したのだという。


抑えきれぬ戦争への憎しみと、やり切れない悔しさが込み上げてきて、握りしめた拳のなか爪が深く刺さって強く痛んだ。

お国のために頑張って参りましたと勇んで玄関戸を開けば「よく頑張ったね。よく買ってきてくれたよ」と、涙を流し喜び労う母の姿があると思っていた。兄は帰って来ましたと笑顔をに皺を刻めば「おにぃ、おっかあの言うこと、ちゃんと聞いて、お手伝いもいっぱいしたんだよ」と、抱きついて甘える妹を褒めて慰めて、頭を撫でてやるはずだった。
「にいちゃん、家族と家をちゃんと守ったんだ」と自慢げな弟に、不在の間、良くぞ母と妹、家を支えて守ってくれたと褒めて抱きしめてやるはずだった。

ただいまと、買ってきたらならば六畳間の畳に大の字に寝転んでい草の匂いに包まれて、だらしなく昼寝をするつもりだった。

誰一人の声も聞くことは叶わない、温もりを感じることも出来ない。他愛ない話をすることも、喧嘩をすることも、笑顔を見ることもできなくなってしまった。「ごはん、美味しいね」とはしゃぐ妹、がっついて喉を詰まらせて胸を叩く弟、困り顔をしながらも笑顔で見守る母の姿。
戦争が始まる前は、私が出征する前はそこにあった日常が
炭と成れ果てた。、

幼馴染にして気心知って、将来を誓った愛する人に、必ず生きて帰ってくると手を振って別れたあの日。名残惜しそうに、寂しそうに手を振る彼女の姿は未だない。
「おかえりなさい」と抱きしめてくれただろう「これから幸せになろう」と笑いあっただろう。彼女の所在を知る人はいない。

いつも大きな声で溌剌としていた近所のおじさんもいない。校庭や畦道を虫を追って走り回った友も、近所の手のかかる幼子もいない。「しっかりやってこい」と日の丸を振って見送ってくれた人のどれだけが残っただろう。
国も、町も、家族も大切な人たちの何一つ、誰ひとり守れなかった。勇んで戦地へ行った人、できることならどこにも行かず、愛する人のもとで平穏に過ごしていたいと唇を噛み締めた人も、行かないでと涙を流した人も、日の丸を振って見送った人たちも。

守れなかった。

残ったのは、惨劇の残る残骸だらけの故郷と、悲しみと前を向かなければ、また始めていかなければという気持ちのなかで藻掻くひとたちだけだった。


暫くして復興が進み、元通りとはいかずとも賑わいが戻り、灰色だった世界が活気に色と光を取り戻しはじめた頃、遠く離れた病院に運ばれた人がいると報せを受けた。聞けば若い女性だというから、根掘り葉掘り必死になって聞いて回った。

駆けつけたそこに見たものは、復興が進む世界で時間が止まったように、ぽつんと取り残された戦場の様相だった。ばくばくと強く打つ心臓が苦しい。まるでボロ布のように横たわる負傷者と、献身的に手当をしてまわる看護師の姿。血の匂いや、すえた臭いのなか、小さくうめぐ声に混じって聞こえる喉笛。どれだけの人が巻き込まれたのだろう、どれだけの町が戦火に見舞われたのだろう。いったい、どれだけの人が命を奪われたのだろう。


ここにいる負傷者のうち、何人ほどが助かるのだろう。


救護所のなか、探し歩いて目にしたのは赤が滲む包帯を所々に巻かれ、すこし痛々しそうにして微笑みをこちらに向ける幼馴染の姿だった、
よく無事であった、よく生き残ってくれたと声をかけ、傍に寄れば「あなたが帰ってくるのを待っていたのよ」と彼女が優しく抱きしめて労いの言葉をかけてくれた。
駆り出された戦地で壮絶に戦い、生き抜いた先で孤独と絶望に身を焼かれた私に、神様は大切な宝物をひとつ守ったのだと褒めてくれているような気がした。子供のようにみっともなく涙を流し嗚咽する私に「しゃんとしなさい」と涙を流しながら笑顔を見せる彼女の姿に、私の心の中で燻っていた戦争の火種が静かに消えた。


家族を失い、友と恩師を失い、戦地では多くの仲間を失った。国同士の愚かな争いに巻き込まれた私たちに与えられたのは、試練と困難だった。そうして、その果てに残ったのは不幸と絶望だけだった。
もう二度と母に抱きしめてもらうことも、母の手作り料理を食べることもできない。素直で真っ直ぐでとてもいい子だった妹と遊ぶことも、一緒に昼寝をすることもできない。すこし我儘だけと、我慢をしていうことを聞いてよく働く弟の成長を見ることもできない。戦争は故郷の日常も、家も、財産も、家族も人の命も奪い尽くして終わった。

誰ひとり、何ひとつとして守れなかったと悔しに震え、無力感に押しつぶされそうな私に、たった一つの宝もの、たった一人の家族が残った。神様などいるものかと恨んだこともあったけれど、神様はたくさんの命を救う中で私の愛する人をしっかりと拾ってくれた。きっと「お前はよくやった、たくさんの誰かの命を救っただろう」と褒美として力を貸してくれたのだろう。



彼女が退院をする時分には、仕事を見つけ必死に働いていた。こうしていると戦争があったこと、戦地に赴いて震える指で引き金を絞ったことも、銃後を想い必死に生きて帰ったことも無かったかのように世界が動いるような気がしていた。仕事をする皆の中に、明るい話題や笑い声が響いて、誰もが今を生きている。現実を受け入れた先に、悲しみを乗り越えて笑顔で第二の人生を始めたようだった。

汗をかき、疲労に身体を重く家に帰れば、あたたかく迎えてくれる最愛の家族がある。あの時、今生の別れになっていたかもしれない恋人が、あたたかいご飯を作って出迎えてくれる。


もしも戦争がなければ、特別なこともない当たり前のことと思っていたことだろう幸せが、いまここにある。


暮らしが落ち着き、私は幼馴染と誓いを交わした。どんなときも支え合って、敬い愛し合って力の限り強く生きていこう。いつまでも隣で笑って、手を取り合っていこうと誓って夫婦となり、互いにたったひとつの家族になった。






壮絶な人生と、歩んできた険しい道のりを話して聞かせてくださった旦那様。震える指で目元に光る涙を拭うと、そっと優しく隣に座る奥様の手を握る。私がたった一人守った愛する人なんだと照れる姿に、私はまた一粒の涙を流しながら幸せを感じました。



涙を流しながら旦那様が話をしてくださるなか、私も同様に涙が止まりませんでした。私の曽祖父や親戚もまた、戦争によって人生を大きく変えられたからということもあり、旦那様の話が重なってしまったのです。
親戚から戦争について話を聞くことはありませんでしたが、祖母や祖父から聞いた話は私の心に強く焼き付いていたのです。


親類のなかには大切な何かひとつでも、誰かの大切な人ひとりでも助けたいと思い、自衛官になった人が多いことは知っていました。そして、幹部自衛官として、部隊指揮をとっている人もいるのだと聞いておりました。
だから私も兄も自衛官になり、事ある時はと備えていました。必死に勉強をして飛び込んだ自衛隊の道は、病気がきっかけで退職することになって志を貫き尽くすことの出来ないままに、半ばにして遂にお役に立つこともできなくなったのです。
せめて何か一つ、誰かのために僅かながらでもこの身を使えないかと考えて復興事業、この仕事に就いたのです。
話を聞いてくれてありがとうと、涙を流しながら手を握る住民様。罵倒しながらも、最後には申し訳ないと頭を下げ、どうか元気に頑張ってくださいと真剣な面持ちで肩を叩く住民様。こうして沢山のお声を頂いて、私は私に出来ることをしっかりとやれているのだなと実感していました。そして、この胸の中にあった想いが旦那様の大義された話で打たれ涙を流したのです。



何の役にもたたず、自暴自棄になったり自己嫌悪で不貞腐れていた私は、話を聞いて情けなく格好悪いと自分を恥じました。


人間が存在する限り、例えどんなに小さな争いも尽きることは無く幾度も悲劇を繰り返していきます。人間は少し賢いが故に、覚えることも忘れることもできます。賢いが故に、選ぶ道の先に悲劇が待っていると知っても、最後には必ず足を踏み込むのです。




だけど、戦争なんて間違った選択をしないで欲しいと全ての国の、国民の上に立つ方に願ってやみません。

6/29/2025, 12:03:35 PM