彼女が隣に越してきたのは、俺が小学校六年生の頃だった。
「こんにちは。これ、つまらないものですが……」
高校生の兄貴とドアにピッタリ張り付いて耳をすませば、女の子は大学進学を機にうちの隣で一人暮らしを始めるらしい。若くて可愛いその子を、母親は一目で気に入ったようだった。
「……かわいくね?」
「かわいい。」
とりたてて特別なものはないその女の子は、ある日突然に俺の日常をガラリと変えた。
隣に越してきた女の子は優しい。ねだれば勉強を教えてくれたし、テストで百点を取れば頬を緩ませた。
勉強を口実にしか話しかけられない俺に、いつも穏やかに付き合ってくれた。
テキストを覗き込んだ拍子に垂れた長い髪。それを耳に掛ける仕草に俺がどれだけ胸を焦がしたか、彼女は知らないだろう。
漫然とした日々が色を付けた。
世話焼きな母親が彼女をうちに呼ぶ度、家に帰る足取りは軽くなる。兄貴も彼女が来る日はどこにも寄らずに帰って来ることを知っている。
彼女との日々は水彩画のようだ。無機質な画用紙に、気まぐれにインクが落とされる。たった一滴のそれは時間が経つ程にじわじわと空白を染め上げて、いつの間にかその一部になる。
愛と呼ぶには淡い情を、上書きしてしまうのはきっと簡単だった。けれど俺にはそれがどうにも惜しくて、ふとした瞬間消えてしまいそうになるそれを大切に大切に慈しんだ。
俺の淡白な日常が、彼女で染まっていく。
始まりはいつも唐突で、終わりとは常に緩やかなものである。
何故なら、予兆は既にそこにあるから。
真っ白な衣装に身を包む兄貴は、どこか固い表情でこちらを見ていた。俺が兄貴を詰るとでも思っているのだろうか。
「───結婚おめでとう、兄貴。」
十年前よりもずっと綺麗なその人は、幸せで声を潤ませた。兄貴の隣に、俺の知らない笑顔で並んでいる。
抜けるような青空の下、素秋には似つかわしくない暖色の花が式場を舞った。
今日この教会が、世界で一番美しい場所なのだろう。純白を纏う彼女を目を焼き付けて、疑いようもなくそう思った。
『始まりはいつも』
10/20/2023, 12:30:38 PM