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タイトル:光の向こう

薄曇りの午後、佳乃は久しぶりに母の家を訪ねた。駅からの坂道は思いのほか急で、途中で何度も足を止めては空を仰いだ。風が頬を撫で、遠くで犬の鳴き声が聞こえた。

玄関を開けると、微かに漂う線香の香り。数ヶ月前に亡くなった母の気配が、まだ家の中に残っているような気がした。誰もいないはずなのに、背中に視線を感じる。思わず「ただいま」と声をかけると、空気がわずかに揺れたようだった。

リビングの奥には、あの窓があった。南向きの、陽当たりのいい窓。かつては観葉植物が並び、母が毎朝カーテンを開けながら話しかけていた場所だ。そこに、まだ白い布が垂れていた。

風に揺れる布を見つめながら、佳乃はそっと近づいた。触れようとして、指先が少しだけ震える。思い出が、あまりにも鮮やかに蘇るから。

――あんた、今日も泣いて帰ってきたの?

小学生の頃、いじめられて、何も言えずに帰ってきた日。母は怒るでもなく、ただこの窓辺に座らせて、麦茶を出してくれた。「ここに座ると、不思議と楽になるのよ」と言いながら。

あの頃の母は、いつも強かった。優しさを表に出すのが苦手で、口調はきついけれど、夜中にこっそりランドセルの肩ひもを直してくれていたり、忘れ物に気づいて駅まで走ってきたり。そういう母の愛情を、佳乃はずっと正面から受け取れずにいた。

大学で家を出てから、連絡はどんどん減った。母もまた、素直ではなかった。「元気?」「まあね」――それだけの会話で、年に数回の帰省をこなすうちに、距離は広がるばかりだった。

病院からの連絡を受けたのは、秋の終わりだった。もっと時間があると思っていた。謝ることも、話すことも、何一つできずに。

佳乃は、布を指先でつまんだ。やわらかく、どこか懐かしい手触りだった。陽の光が透けて、庭の草木がぼんやりと映る。あの頃と同じ、午後の明るさだった。

ふと、窓辺の棚に、古い箱が置かれていることに気づいた。手に取ると、中には何枚もの手紙があった。封筒の裏には、佳乃の名前。開くと、母の字が並んでいた。

「いつか素直に伝えられたらいいけれど、私は不器用だから――」

母は、言葉にする代わりに手紙を書いていたのだ。誕生日、卒業式、引っ越しの日。それらの節目ごとに、封筒が一枚ずつ増えていた。

佳乃はその場に座り込み、ひとつひとつ読み進めた。心の中に沈んでいた言葉が、波のように溶けてゆく。もう二度と、声は届かないけれど、母の気持ちはちゃんとここにあった。

気づけば、外は少し曇りはじめていた。遠くの空が灰色に沈んでいく。

佳乃は立ち上がり、窓のロックを外した。重たいガラス戸を開け放つと、カーテンがあおられて涼しい風が部屋を満たす。 

その瞬間、光が差し込んだ。雲の切れ間から射す、まばゆい一筋の光。

佳乃は、そっと微笑んだ。

「ありがとう、ちゃんと届いたよ」

部屋の中には、もう母の姿はない。でも確かに、そこに愛があった。風に揺れる白い布が、まるでその証のように、ゆっくりと空に向かって手を振っていた。

6/30/2025, 8:47:17 PM