月森

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 私はひどい見栄っ張りで、弱音を誰かに聞かれるのも、弱った姿を誰かに見られるのも嫌いだった。だから不治の病を患った私は、人を遠ざけ、人里離れた海辺の小屋でひとり暮らすことにした。これで私は安心して死ねる。そう思っていたのに、いざ目の前に死がちらつくと、おかしなことに、私はひどい寂しさに襲われた。もう何年も泣くことなどなかったのに、次から次へと溢れてくる涙を止めることが出来なかった。

 ああ、私は間違えたのだと思った。弱さを見せないことこそ、強さだと信じていたのに、そうではなかった。本当の強さとは、他人に己の弱さを晒すことだったのだ。その上で、生きていく。私は、誰かに弱みを握られるのが怖かった。けれど、それは同時に誰かが私を“知っている”ということだ。誰にも何も知られることもなく死んでしまったら、私が生きてきた軌跡も、その存在も、確かにそこにあったものが、まるでなかったことになってしまう。そんな気がした。

 私は、此処で、確かに生きていた。見栄っ張りで寂しがりで臆病な、とびきり愚かな人間だった。




 窓の外に大きな入道雲が見える。それを見てふと思い出したのは、遠い日の友の顔だった。私が、天を目指す羊の群れのようだと言ったその雲を、彼女はよく膨らんだ美味しそうなクリームだと言った。こんなにも感性が違うのに、彼女とは何故か馬が合った。
 私は周りからよく表情が乏しいと言われていたのだが、彼女は私の気持ちをどういうわけか察して、度々助けてくれた。誰にも見えていない私を、彼女だけが見てくれていたのだ。

 私は、ベッドの傍に置いてあった便箋と万年筆を手に取った。そして、震える手で文字を綴る。



『親愛なる我が友へ

私のことを覚えているだろうか?長く会っていないし言葉も交わしていないから、忘れてしまっているかもしれない。それでもいい。ただ、聞いてほしい。

君は今頃、結婚して子を持って、優しい旦那と幸福に暮らしていることと思う。そうしていると私は確信している。何故なら君は、とびきり善人だ。私は君がしてきた苦労を今でも覚えている。この世界が正常ならば、君は報われていなければおかしい。

君に私は、いつも助けられていたね。なのに私ときたら自分のことばかりで、君に何の恩も返せなかった。それだけが、今は心残りだ。君に何も言わずに姿を消したことも謝りたい。そしてそれが誤りだったとも、今なら分かるんだ。本当にすまない。

もし、来世というものがあって、人に生まれることが出来たなら、今度は君の隣で笑って生きられるような人間になりたい。そう、心から思う。

かつて君の友だった者より』



 私は便箋を丁寧にたたみ、封筒に入れた。

 ガタン!ガラガラと、庭に出しっぱなしになっていたバケツが転がっていく音が響く。外の風がずいぶん騒がしくなってきた。今、この風の中へ手紙を投じたら、彼女のもとへと運んではくれないだろうか、なんて不毛なことを考えながら、私は建付けの悪くなった玄関の扉を施錠するためにベッドを下りた。
 その時、一層強く吹いた風によって無遠慮に扉が開かれた。同時に潮風と塵が私に吹き付け、思わず両腕で顔を庇った。それを退かして視界を取り戻した時、私はあり得ないものを見た。これは、死にかけの脳が見せた幻覚なのだろうか。開け放たれたドアの前に立っていたのは、私の無二の友だった。月日の経過など感じさせない姿で、彼女はそこにいた。そして第一声にこう言った。

「やっと、見つけた」
 立ち尽くすばかりの私に彼女が腕を伸ばし、まるで迷子の子どもを抱くように、私を優しく包んだ。しかし私の腕は、宙を彷徨うばかりで彼女に触れられない。
「その万年筆、まだ使ってくれてるのね」
 ベッドのテーブルを一瞥した彼女は、あの頃と違わぬ微笑みを湛えている。
「どうして、君が…」
 やっと口から出た声は、恐ろしく震えていた。
「迎えに来たのよ。あなた寂しがりだから、きっと泣いていると思って」
 彼女が此処に到るまでの経緯を、私は瞬時に想像した。それを思うと、涙が止めどなく溢れ出し、私は両手で顔を覆わずにはいられなかった。
「すまないっ…いつも私は君に迷惑ばかり…!」
 ひたすら謝り続ける私に、彼女は苦笑した。
「謝らないで、私何も後悔なんてしてないのよ」
 彼女が抱擁を解き身を離し、私にその右手を差し出してくる。
「行きましょう。一緒に」
 言いたいことも言わなければならないこともたくさんあった。けれど、今はすべてを飲み込んで、私は泣きながらそれに頷いた。彼女の手をとると、重たくて堪らなかった身体が途端軽くなり、全身にあった痛みも嘘のように消えていく。
 まっすぐ彼女を見つめると、彼女の眼も真摯に私を見る。私たちは、しっかりと手を繋ぎなおした。もう二度とこの手を離すまいと誓うように。そして、歩き出す。あの日見た天まで届く入道雲に向かって。



 海辺の誰も近寄らない小屋の中には、ひとつの幸福な魂の抜け殻だけが残されていた。

6/30/2023, 7:30:21 AM