【あいまいな空】
「最善を尽くします」というのは、何とも曖昧な言葉だなぁと思う。医療の現場でよく使われるが、そのたびに「結果を保証するわけではない」この言葉の曖昧さばかりを考えてしまう。
もちろん、病状についてはどんなときでもできるだけ正確にわかりやすく伝えているつもりだ。その上で、「最善を尽くす」という言葉を使う。尽くすだけなら誰でもできる。最善を尽くせば、患者さんやそのご家族が望む結果が必ず出るというわけではない。むしろ、最善を尽くしても最悪の結果につながる可能性が高い場合もある。
「最善を尽くし」た手術は成功したが、術後の合併症によって帰らぬ人となった患者さんがいる。今日、その奥様とお会いした。
「力が及ばず、申し訳ありません」
僕が頭を下げると、直後に彼女の声がした。
「先生、どうぞお顔を上げてください。夫が亡くなったのは先生のせいではありませんから」
顔を上げると、彼女は泣き笑いのような複雑な表情を浮かべていた。
「ここに来るまでいくつもの病院を廻りましたが、全てで手術を断られました。ですから、術前に先生から最善を尽くすと言われてとても嬉しかったんです。先生が最善を尽くしてもなお、彼の生命が終わるのなら、それは寿命であり運命だと2人で話しました。事実、先生の手術は成功でしたし、術後2人で過ごした時間は短かったけれど、先生が最善を尽くしてくださったからこそ得られた幸せな時間でした」
僕が曖昧だと切り捨てた言葉を、この人たちはこんなにも大切に想ってくれていたのか。主治医として、患者さんやそのご家族の前で涙はみせられない。僕は、自分の感情を懸命に抑えていた。
「先生が力を尽くしてくださったおかげで、私は主人を亡くした今も心穏やかでいられます。本当にありがとうございました」
そう言って、彼女は深々と頭を下げた。再び顔を上げたとき、彼女はやはり泣いているような笑っているような表情だった。
「これからは、ご自身の健康を大切に…もし何かあればいつでもいらしてください」
そう言って彼女と別れた後、僕は病院の廊下の窓から空を見上げた。彼女と会う前にはどんよりと曇っていた空が、今は青空が広がり陽が射している。だが、時折ポツポツという雨音が聞こえてくる。俗にいう「天気雨」だ。先ほどの彼女の表情を思い出した。
曖昧さには、時として相手への心遣いがある。必死で笑顔を繕う彼女にも、諦めずに最善の道を探る僕にも。曖昧な空も、誰かの心を気遣っているのかもしれない。
6/15/2023, 9:00:54 AM