どこにも行かないで
人はなんのために生まれて何のために生きるのだろう。
いくら言の葉を紡いでも届かないものを求めている。
誰も彼もがどうしようもない歴史の流れに逆らう事が出来なかった時代。
当たり前に生きる事が出来ず、まるで御伽話の中に迷い込んだようにみなが深い霧に囚われた。
思い出す面影は微笑む姿だけ。
ただそれだけを頼りに探し続ける。
深い霧に迷い込んだ旅人のように、あてもなく終わりがない長い長い迷路を手探りで歩き続ける。
ただ一つの光を求め探して彷徨って嘆き続けた。
通り過ぎる幾千幾万幾億の光ではない。
ただ一つ。ただ一人。
それだけしかいらなかった。なにもいらなかった。
なに一つ求めるものはそれ以外にないというのに。
手元には遺骨ひとかけらすら残らない。
誰もがそんな時代だった。
みんな守りたいものがあった。
みんな名前がない英雄になった。
みんなそばに居たい人が居たはずなのに。
『君が生きる未来を守る』
寂しそうな微笑みをずっと探し求めて生きている。
今年もまた夏が来た。
毎年更新される『例年より暑い』という記事は
嫌なことに本当になりそうだ。
この歳になると歩くだけで疲労感が強い。
外に満ちたムワッとした空気に少しだけ風が流れる。
照り返す日差しに暖められた風に吹かれて、日傘に隠れた額から汗が噴き出る。流れ落ちそうになる汗を皺だらけの年老いた甲がゆっくりと拭った。
毎年この日だけは必ず訪れていた。
長い時間の中で何もかもが変わっても、この石碑だけは止まった時間のままで迎えてくれる。
こちらばかりが時の流れに流されて変わっていくのに、若いままなんてずるいわ。少しだけ笑えるようになった目尻に深い皺が刻まれる。強い陽射しを受けた石碑は触れると命を持つように温かかった。
求める名前は一つだけ。
数えきれない名前の中でただ一つだけ。
時代に奪われた幾千幾万幾億の光は時の流れに風化する。悲しみも憎しみもどこか遠い物語になっていく。
あの時代を知らない若い世代ばかりになる世でこれからさらに未体験のこの記憶は加速度的に霧の中のおとぎ話になっていくだろう。
諦めるように怒りを携えるように、泣き出すように、力強く置いた指で名前をなぞる。
いつか失われて消える運命が待っていても、それは忘れられる事はなく、この胸にある。決して忘れない物語。
本当は置いていかないで、どこにも行かないでって
いえなかった事の後悔をずっと忘れる事が出来ないの。
言葉にする事が許されなかった時代でも
伝えなければいけなかった。
たとえどんなに苦しみしか待ってなくても、
貴方さえいればよかったのです。
霧の中の迷路が開けるまであと少し。
私と同じ悲しみを繰り返さない未来をどうか。
貴方の所に行く未来に、どうか平和を。
6/22/2025, 12:25:30 PM