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マグカップ


『おひとつ、いかが?』

芳ばしい匂いを片手にニコリと微笑む。
目の前には金色に輝く髪をたなびかせた美しい少女が一人。それが日々を劇的に変えるチャイムを携えた女神との出会いだった。


唐突に降り出した雨から逃れるように森を彷徨う。
鬱蒼と生い茂る草木に護られるように立つ小さな荒屋を見つけたのは運命だったのか今でもよくわからない。

コンコン、ドアを軽くノックする。
小さな窓から漏れ出る光は人が中にいる証だ。
小一時間でいいから雨宿りを頼みたい。
雨を含んで足場の悪い中、街まで急ぐのは厄介だった。
しかし、こんな人目を避けるように小屋を建てるような相手だ。断られる事も覚悟してしばらく待つ。

かちゃり、と小さな音がする。ギギイという重たい音を立てて開く扉から顔を出す。目にしたのは大男でも木こりでも無い。こんな場所に似つかわしく無いほど美しく可憐な少女の大きな瞳だった。

おひとついかが、と優雅に手に携えたカップが目の前に置かれる。コトリと音がしたカップからは湯気と共に焦げたような甘い匂いがたちのぼる。見たことの無いこの飲み物を尋ねると彼女は微笑みながらここあと言うそうだと答えた。

なかなか手をつけないこちらを見てニコリと笑うと彼女はまるで手本を見せるかのように優雅にカップを口に運んだ。元は貴族だと言うこの美しい少女が人目を避けてこんな場所にいるのかはわからない。
『体が温まると思うのだけど。』
再度どうぞと促されて恐る恐る口に運ぶと少し苦みを感じだ後の口いっぱいに広がる甘みに体の中からポカポカと温まる気持ちがした。
夢中になって飲み干すと、二杯目三杯目と継ぎ足された。エミが飲んでいたものを初めて作ってみたからお口に合うかわからなかったけれど良かった。飲み干したカップを両手で持つ彼女はまるで女神だ。

なんでもこの辺鄙な森の領主にされたという元貴族のこの少女は、領地の土地を切り開き村を作る為にこの小屋を建てたという。

『アンタもまた物好きだなぁ。こんな場所じゃなくてもいいだろう。』
年若い娘一人でこんな場所に隠れ住むように生きなくていけないのは辛いだろう。言外に込めた憐れみを見たのだろうか。
少女は力強くいいえ、と笑う。
『わたくしはどうしてもやりたい事があるのです。
それにはまず居住性や環境の問題を経験してから随時対策を立てていく必要があるんです。それにこんな事でわたくし、挫けてなんかいられませんもの。』

儚げな細い指がカップの持ち手をしっかりと掴む。
ほう…と思った。
一見この儚げな女神様は意外と野心かあるのかもしれない。一宿一飯の恩義もある。ならば。

『アンタがいいなら、俺がもう少しマシな小屋を建てようか。これでも俺は大工なんだ』
これも何かの縁だろう。それになんだか貰った飲み物のせいだろうか、酷く気分が良かった。目の前の少女が作り出す何かに一枚噛んでみたら面白そうだと思ったのだ。
よろしいの?
そう控えめに問いかける声に胸をドンと叩いてみせる。
もちろん、そう言って笑いかけると女神は嬉しそうに笑った。

『そういやアンタの名前を聞いていなかった。
名前はなんていうんだい?』
いまさらかとも思ったが女神様ではこそばゆいだろう。
お互い自己紹介すらしていない。

女神は二人分のマグカップに『ここあ』を継ぎ足しながら目を細めて微笑んだ。

『わたくしの名前はレミリア。
ただのレミリアからはじまるの』




これが俺の人生の転換期。
それからあれよあれと荒れ野は村になり村は町になり都市になっていく。
大工の仕事に困らない、そんな人生が待ってるなんてね。嬉しい悲鳴をあげながら、あの時飲んだココアを片手にマグカップを掲げる。
明日は魔王を携えて女神の為の舞踏会が開かれる。
魔王に女神とくれば人間に敵う奴など居ないだろう。
思う存分に暴れて不実の罪を洗い流してくればいい。

『我らが女神に栄光あれ!!』
酒場に大勢の声が響く。

掲げられた数多のマグカップたちは、
共に貴女の勝利を祈っている。

6/16/2025, 4:38:16 AM