行灯

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 けたたましいアラームは、鳴らなかった。ことにした。朝を告げられても困るのだ。こちとら絶賛、布団に求愛中である。
 だが、欠勤がつくのはもっと困る。夢心地でもお腹は満たされないのだ。苛つき故の緩慢さで、今日ものそのそ起き出した。

 義務と言うより必要性。現代社会を生きる人達に必要なもの。……というか、現代社会を生きる私に必要なもの。いいじゃない、『私だけ〜』なんて思うより、主語大きくして周りも勝手に真っ黒にして、悦に入ればまだ頑張れるのだから。
 全く、性格が悪い。おまけに夢も希望もない。……まあ、それでも生きていけるんです。悲しいことに。
 朝から哲学もどき、語ってみても時計は進む。あれよあれよと言う間に、ああ電車の時間。すっかりくたびれたオフィスカジュアルに袖を通して、……今日の帰りにファストファッションブランドを漁ると決めて、取り敢えず、底の擦れたパンプスを鳴らした。
 焦っていても遅刻はしない。何回この道を通ったと思っているのだ。変わり映えのない日常は、つまらないけれど平穏だ。
 ……いや、訂正。いらない方向に変わることもある。月末からバスの運賃が上がるらしい。オーマイゴッド、ワン・モア・コイン。

 世の中は、つまらないうえに世知辛い。




 「……あ、新作」

 家から職場までの道のりに、少し大きなショッピングモールがある。外道沿いに作られた客寄せパンダな映画館の、でかでかと張り出されたポスターには、著名な監督のアニメ映画があった。
 中身としては、目新しさはあるけれど、ようは少年少女の、数日間の不思議な体験である。
 昔は、好きだった。よく覚えているものだ。『どうして好きだったのか』。ひょっとして、に期待ができた、とてもとても純粋な感情たち。なくなったわけではないけれど、それ程大きなエネルギーを生み出さなくなった感情たち。
 よく、覚えているくせに。
 今朝は憂鬱なため息一つ、生み出すことしかしなかった。



 ……時折、思うのだ。目に付く、ドアというドアを全て、開け放ってやろうか、と。
 そうしたら、その内の一つくらいは、ファンタジーな何かに繋がっているのではないか。
 そうしたら、決して行けない世界に焦がれることもなく、こんなに惨めな思いをしなくても済むのではないか。


 ――それは探究心でなくて、逃避である。

 
 誰に言われたのか、自分で言い聞かせたのか。いずれにしても、そうニヒルに嗤った瞬間から、感動が冷めるまで時間が、圧倒的に短くなった。
 そうして冷めて、哀しくなった。
 気付いてしまった。簡単なのだ。泣くより笑うより、ただ口角を吊り上げるほうが。よっぽど疲れず、何時でもできる。ほら、これが大人になるってことなのよ。そんな風に言う時だって、やっぱり嫌味な顔で、笑ってる。

 ああ。



 「…………うっっせぇぇ!!!」

 
 逃避? いいだろ別に。
 そうです鬱々鬱々皆暗いから!
 たまにはそんなの全部忘れて息抜きしたいんですぅ!

 好きだよ。今でも大好きだよ。ぐちぐちこうやって考えるけど、ああ畜生、泣いちまったって、なんか負けた気になりながら、八つ当たりするんだよ。

 すぐ『覚める』かもしれないけど。
 虚しくなるかもしれないけど。

 それでも、こんな自分を、どこかへ連れて行ってくれるから。コンマ一瞬、だけど確かに、ここではない何処かへ、私が行けるから。


 ……やめた、やめた。服なんてまた今度。頼まれても今日は絶対定時で上がって、ここに来て。

 終わったら、ビールとポテチを買って、見知った家に帰ることにしよう。冷めるまでの、知らない感情をひきずって、帰ることに、しよう。


【ここではないどこか】

6/27/2023, 5:57:39 PM