月が凪ぐ夜

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思い出すのは夏も過ぎた初秋の入り口。続く長雨に飽いた子どもたちが長い廊下を駆けていく。
鬱屈とした気分で読んでいた本をめくる手も鈍く、ただしとしとも振り続ける曇天を眺めていた。
耳に入るのは教室の隅で笑う数人の声と、黒板に落書きをするチョークを引く音、そして騒がしい足音で廊下を走るけたたましい歓声。
いつもならうるさいと思ってもさして気に留めず、深いため息をつくだけの変わらない雨の日常の風景だった。
だから隣で響いた吃驚(きっきょう)の声に振り向いたことはただの偶然だったと言える。
けれどその瞬間からきっと何かが狂い始めてしまった。
ばちん、と合った目と目に何かの歯車がゆっくりと動き出す。当時はまだ何か分からずにいたその軋む音にもう少し早く気づいていたのなら、狂っていく歯車の可動は止められたのだろうか。
今ではもう憶測しかできない事実だけれど、きっとそれでも自分は変わらないのだろうと私は思う。

あの雨の日に私はあなたと出会った。
そして私を変えたすべての原点がそこにあった。

誰かを好きになるということ、誰かを愛するということ…私の中にある愛という感情の歪みをあなたが作って形成した。
愛する人に願うのは、ただ愛する人が幸せであること。愛する人が幸せであるならば、私はそこにいらないのです。もしも愛する人の幸せに私が邪魔になるのなら、私は私のなにもかもをこの世から消してみせましょう。
そんなあなた至上主義のわたしの愛は、きっと重く、暗く、澱んだものなのでしょうね。
わかっているからこそ私はこの愛を封じ込め、あなたのそばを離れていった。たとえそれが、さらにこの想いに歪みを生じるものだとしても。
一度狂った歯車は二度と戻ることはないのだから…。

それでも私はあなたを恨みはしない。
私の中にあるのはあなたへの愛しさだけ。
私があなたの思い出を語るのに、あの雨の日だけは決して忘れてはいけない。今も激しく胸を刺す、あの柔らかな雨の日のことだけは…。


【柔らかい雨】

11/6/2023, 3:41:55 PM