NoName

Open App

【彼女は静かに…】
そこから先の文字が「笑んだ」なのか「涙した」なのか判別がつかない。
目を凝らしても、どうやっても見えない。

彼女は静かに…どうしたのだろうか。
先が気になるが文字が見えないのではしょうがない。
後ろ髪を引かれつつも、しぶしぶと物語の世界から遠ざかる。

主人公がいた昼間の学園の世界から遠ざかると、本を持つ自分の手が写った。物語から戻った感慨よりもその手が薄暗い色をしている事にギョッとする。

本を読み始めたのは、昼間であったはずだが…。
今は何時だ。
自分の座るソファーに面した壁に吊るした時計へ目をやるが、時計が見えない。
見事に部屋の闇に溶けてしまっている。
時折チラチラと動いて見えるのは秒針だろうか。
肝心の時間は見えない。

部屋の中に夜の帳が忍び込むのも気付かない程、本の世界にいたらしい。

物語としては佳境に入るところだったので非常に続きが気になるが、明かりをつけなければ続きも楽しめない。それにこの暗さは目にとって悪すぎる。

ソファーから離れた部屋の明かりのスイッチを押さなければいけないのは知っている。知っているが、異常に腰が重い。ソファーから立ちたくない。

その理由はわかっている。

明かりをつけたら、続きを読まないという事を知っているからだ。

部屋の中がこの暗さということは、夕飯の準備をしなくてはいけない。夕飯の準備をしたら、夕飯を食べて、汚した皿を洗って、風呂に入って、そしたら…。寝る時間だ。
寝たらまた5日間、憂鬱な仕事が待っている。

このソファーから立ち上がって明かりをつける一連の動作の先に、また5日間のあの時間へと繋がるとわかってしまっているから動きたくないのだ。

とは言えども、このまま夜の帳に包まれていると鬱々とした気分にもなってきてしまう。

はぁ〜と長いため息をつき、本に栞を挟む。

ソファーの脇にあるサイドテーブルに本を置こうとすると、本が重たい何かに当たりチャプンと音がした。
いきなり響いた水の音に慌てて本を引き、本が当たったサイドテーブルの上に目を凝らす。ぼんやりとであるがカップの形が見えた。

読書の友にと用意した珈琲だ。
何時もながらの事だが、飲むことをすっかり忘れていた。

物語に夢中になると飲まないのに何時も用意してしまうのは、休日の読書という時間を素敵な時間にするためだ。
本と珈琲の香り。本当はカフェで読書出来れば良いのだが、薄給な我が身としては贅沢することは出来ない。
珈琲を用意するのはせめてもの贅沢のつもりだ。安いインスタントだけど。

本をソファーの上に置き、冷めきったカップを手に取る。
薄暗いを超えて暗いリビングを歩き、キッチンへ向かう。流し台の前に立ち、手元のカップを傾け珈琲を捨てる。
暗い流し台は黒く冷たい香りの飛んだ珈琲を文句も言わず飲み込んでいく。
贅沢で幸せな趣味の時間が今、音を立てて終わった。

部屋の明かりを付ける前に全部屋のカーテンを閉めなくてはいけない。そうしないと外から部屋の中が丸見えになってしまうから、一人暮らしを始めた時から心がけている事だ。

まずは玄関側の寝室から。
寝室と言っても、クローゼットとベッドしかないシンプルで面白みもない部屋だ。

夕飯は何にしようかあれこれ悩みながらカーテンを閉めようとすると、カーテンを持つ自分の手がくっきりと見える。
光源は外からだ。
レースカーテンを越えた先に大きな丸い明かりが煌々と輝いている。
レースカーテンを開け、夜に沈む街が広がる景色の上。街明かりに劣らない満月が、輝いていた。

開け放たれた窓から月明かりが部屋へ差し込んでくる。
終わる休日の嘆きを月が清めていくかのようだ。
静寂に包まれた部屋に満ちる月明かりに照らされ
私は静かに微笑んだ。

9/29/2023, 1:28:53 PM