おさしみ泥棒

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 チャイムの音が響いた瞬間、睡魔との戦いはようやく終わりを告げた。大きく伸びをすれば、背中の骨がポキポキ鳴る。教科書やらノートやらを雑に机の中に突っ込んでから、俺は後ろを振り向いた。
 てっきりいつものように机に突っ伏して気持ちよさそうに寝こけているかと思ったが、後ろの席の西木は、今日は珍しく起きていた。
 しかも西木は今、教科書を開いて読んでいる。文字が並んでると眠くなる、とか言って、教科書を忌まわしき呪いの書物だと見なしていた、あの西木が。明日槍でも降るんじゃないかと思いながら、俺は「おい、西木」と声をかけた。

「吾妻。悪いけど俺は今集中してる」

 ちょっと黙っててくれないか。西木は目を落としたまま言った。こいつって、何かに集中することができたのか。知らなかった。
 熱でもあるのかと思って、西木の額に手を当てて自身の体温と比べてみたが、まごうことなき平熱だ。いよいよ不安になってくる。

「お前ほんとに西木か?」
「あたりまえだろ」
「今朝なんか変なものでも食べた?」
「食べてない」
「じゃあどっかに頭打ったとか?」
「お前さあ、俺のことなんだと思ってんの」

 西木はやっと顔を上げて、俺を見た。いかにも不服そうにこちらを睨んでいる。

「俺がちょっと勉強してるぐらいでさ」
「だって普段のお前からしたらありえないし」

 常ならば、授業開始から三秒で爆睡。起きているのは体育の授業中と昼飯時、それから部活動の間だけ。体力ばかりを漲らせたアホの申し子・西木良輔が勉強をしてるなんて、天変地異の前触れとしか思えない。

「どういう風の吹き回しだよ」

 俺が言うと、西木は窓の外に目を向けて、「今日あんま風吹いてなくね?」と答えた。どうやら中身はいつもの西木のままのようだ。俺は少し安心した。

「なんで急に勉強に目覚めた?」

 俺は改めて、西木でもわかる言葉で言い直した。すると西木は、なぜかちょっと照れくさそうに頭を掻いて「それ聞く?」と言った。
 あ、なんかめんどくさそう。直感でそう思ったが、既に西木のスイッチは入ってしまったようだ。

「宮村さんに好きなタイプ聞いたんだよ」
「へえ」
「そしたら、頭のいい人って言われて」
「…………」

 隣のクラスの宮村琴葉は、西木の片想いの相手である。告白こそまだしていないらしいが、はたから見ていてもバレバレだ。
 宮村さんも、西木の猛烈なアプローチに困っているのだろう。好きなタイプを「頭のいい人」と答えることで、たぶんやんわりと西木を拒絶している。けれども西木が、相手の気持ちを細やかに察するスキルなんてものを持ち合わせているはずもない。
 好きな子のタイプが「頭のいい人」だとわかった途端、少しでもそれに近づこうと教科書を熱心に読み始める、単純な男だ。一言で言えばバカ。だけど俺は嫌いじゃない。宮村さんはどうだか知らないが。

「とにかく俺は今から猛勉強して東大入って、宮村さんに告白するんだ」
「あぁそう。まあ何だ、がんばれ」

 またすごいこと言い出したなと思いつつ、俺は愛しきバカの頭にぽんと手を乗せた。

【テーマ:バカみたい】

3/22/2026, 2:47:55 PM