リビングには、人の気配だけが薄く漂っていた。ダイニングテーブルの椅子がときどき小さく軋み、カップが受け皿に触れる乾いた音がする。本のページを捲るかすかな擦過音が続く。せんせいの愛猫のミントが喉を鳴らしている気配もある。
床に座っていたハルは、毛布の端を指先でにぎりながら、ぼんやりとその音の流れを聞いていた。
耳の奥で秒針の音と混ざって、世界は薄く動く。けれど、ハルの周りの空気だけが、少し重い。目は重く、身体はだるい。胸のなかで小さく泡が弾けるみたいに、落ち着かなさが繰り返し浮き上がる。視線は、廊下の向こうにある階段へ吸い寄せられた。
そこが、ハルがいつも抱えている不安の出口であるかのように見えた。
ハルは、そっと手をつき、膝を立てる。ふら、と肩が揺れた。足裏が床を探り、ぐっと押し上げる力をつくるのに、いつもより少し長い時間がかかる。
立ち上がる。膝がわずかにぶるりと震え、身体の芯が空洞のように軽くなる。呼吸は浅い。鼻から吸い込む空気が喉の奥で引っかかる。
「……ん、しょ……」
舌足らずな小さな音が、唇から漏れた。声より先に、胸の内側で力がほどけていく。ハルは、両手を胸の前でいちど握りしめ、離し、そして階段へ向かった。
階段の一段目。
角に小さな手を掛け、膝を持ち上げる。足先が段にうまく乗らない。何度か擦るように探って、やっとつま先がひっかかった。腹を段に乗せるようにして、ぐい、とのぼる。
木の板が肌着越しに硬くて冷たく、感覚が鋭い肌がぶるりと震える。鼻先に、木の乾いた匂い。息が短く切れる。
「……ん……」
膝で立つ姿勢に落ち着くまで、十数秒が流れた。肩で呼吸をするたび、背中の生地がきしむ。
二段目。
手が先に逃げる。段と段のあいだへ小さな掌を突き出し、指の腹で表面を探る。腕がぷるぷると震える。肩が上がり、歯の奥がぎゅっと噛み合わさる。
片足を持ち上げた瞬間、身体が横に流れた。あわててもう片方の手で段鼻をつかむ。爪が板をこする音が、耳の奥で大きく響いた。
「……っ」
短い息。腹で押し上げ、膝をずる、と運ぶ。二段目へ身体がのしかかるように到達する。到達したのに、体内の力は減っていく一方で、回復する気配がない。
喉がひゅ、と細く鳴る。
三段目。
もう一度、手。指。木の目の細かな段差に指先が引っかかる。そこへ体重を乗せるには、腕が細すぎる。けれど、ほかの道をハルは知らない。がんばって、持ち上げる。
腹を段に預ける瞬間、背中の筋がびくりと跳ね、視界が斜めに傾いた。息が一気に浅くなる。胸の前から力が抜け、腕が床に張り付くように重くなる。
「……ん、……ぅ……」
声というより、空気の欠片。
三段目に乗ったところで、身体はぐたりと沈み、動き方を忘れたみたいに固まってしまった。
時間が、薄く伸びる。
心臓は小刻みに、でも遠くで、忙しなく跳ねる。耳の奥で自分の呼気が擦れる。手のひらはじっとり汗ばみ、木の表面がすべりやすくなる。指を握り直そうとしただけで、前腕の奥がぴり、と痛んだ。
肩にのしかかる重みの下で、肋骨が浅く上下する。目の端が熱い。涙が、意識より少し遅れて溢れた。頬を伝う感覚は、冷たいのに痛い。
「……ぁ……」
かすれた音に、すぐしゃくり上げが続く。けれど泣き声にはならない。喉の奥で、細い音が途切れ途切れに震える。
ゆっくり、振り返る。
三段。階段をたった三段。
それなのに、下までの距離が、見たことのない高さに変貌していた。床の木目が、遠い。ダイニングの椅子の脚が、細く、心許なく、どこか別の部屋のものみたいに見える。
段の角は鋭い。ほんの少し動いただけで、身体がそこから滑り落ちていく想像が、勝手に生まれて止まらない。胸がつぶれる。喉が締まる。
「……ぁ、あ……せ、ん……」
言葉はほどけて、空気にまぎれる。手は離せない。前へ進む力も、後ろへ戻る勇気も、どちらもない。
背中に冷たい汗が流れ、肌着の内側でべたりと張り付いた。
視界の下で、ぽと、ぽと、と透明な雫が段に落ちていく。音はほとんどない。涙だけが増えていく。
呼吸は浅い。吸っても吸っても、少ししか入らない。肩が上がって、すぐに落ちる。膝は固まり、足先はつまって動かない。
「……せん、せ………は、る……」
続く言葉は出ない。続けられない。
口の形だけが、ゆっくりと変わって、止まる。喉の奥で小さくしゃくり上げる音が鳴り、また止まる。
せんせいは、話しかければ返してはくれた。ただ、それはすぐに切られてしまう。その経験が今になって、胸の奥に冷たい重みとなって沈んだ。
もう、登る体力も、降りる勇気も、どちらもない。
そのとき、下の方から、また本のページを捲る音がした。
はらり、はらり、と。時間を空けて。続いて、カップが受け皿に戻される、短い金属音。ミントの喉が、低く、喉奥で鳴る。
すぐそこにいる。せんせいがいる。
でも、その気配は、こちらへ動かない。椅子が大きく引かれる音も、床を踏む足音も、ひとつも来ない。音はすべて、同じ場所に留まったまま、元の生活の形で流れていく。
言うまでもなく、せんせいはハルの状況に気付いている。気付いていて、助ける気はない。興味がない。落ちて怪我をしたら面倒だという義務感はあるが、手助けなどしたくない気持ちが勝った。それだけだ。
もし助けるとすれば、このまま時間が過ぎ、食事の時間が訪れたときだろう。義務として、必要な栄養は与えなければならない。その手間を考えて、音もなく眉を顰めた。
リビングは静かだ。気配はあるのに、助けに向かう気配は、最初から最後まで一度も揺れない。
誰も来ない。気配は変わらない。
ハルは三段目で固まり続ける。涙だけが代わりに動き、頬を伝い、段を濡らして、床へ落ちる。
時間は進むのに、降りる術も、登る力も与えられないまま、怖さだけが大きくなっていく。息は浅く、喉は狭く、身体は小さく丸まっていく。
そして、もちろん、助けは来ない。
#ハルとせんせい
言い出せなかった「」 25.9.4
9/4/2025, 10:32:40 AM