日向の小径は、背丈の低い柵の内側から夏草がこぼれ出していた。風が吹くたびに、細い葉がいっせいに裏を見せ、光の粒が逆流するように揺れる。
ハルはゆったりした足取りで、慎重に歩いていた。道脇に生い茂る夏草の青いにおいをハルは敏感に感じとる。
足もとで草が膝に触れ、うすい緑の匂いが立つ。おぼつかないが、転ばない程度に前へ進んでは、ふいに立ち止まった。
その横をせんせいは陽の形を崩さず、影を細く引いて通り過ぎる。衣擦れの気配だけが、ハルの耳の端でほどけていく。
「……ん……ぁ、ぅー……?」
草むらの縁に、ひとつだけ白い花が立っていた。背のびをするように、茎が細く伸びている。花のすぐそばで、小さな影が跳ね、光の点がちらついた。
ハルはその場に身を縮める。手を前へ出すが、触れることはない。空気の触り心地を確かめるように指をふるわせる。
「……ぉ、は……にゃ……」
舌足らずの声は掠れて、草に吸われる。花びらの白は朝の牛乳みたいに薄く、中心だけがきいろく濁っている。
影の正体は、小さな虫だった。羽が、陽に透ける。
「……むー、む……いる……」
ハルはほとんど動かない。ただ、その目は大きくなったり、固まったり、ぱちぱちと瞬いたり。見ているものが、目の中で静かに大きくなる。
風が草を倒すたび、花は細く揺れて、虫は位置をわずかにずらした。
「……こ、こ……ある……」
掌をひらいて、花の高さに合わせる。静かに、怖々と触る。草の細さが、皮膚の上で糸のように滑った。茎は折れやすい。それでも、撫でるような触り方では、ほとんど動くことすらなかった。
「さわ……さわ……」
虫がふっと浮き、光の薄い紙片になって、また草の影へ落ちた。
ハルの口もとが、珍しくほんの少しだけ緩む。笑っている、というほどではないが、頬の表面に、ごく淡い血の色が差した。
その間に、せんせいの靴音は、少し先で止まった。ハルはその音をそっと聞き、目だけで静かにその影を辿る。
「……せん、せ……」
呼ぶ声は、掠れていて、ささやくようだ。風が先に返事をして、葉ずれのざわめきが声をほどく。
聞こえなかったのか、せんせいに反応はない。少し先で立ち止まって、振り返ってハルに目を向けている。
やがてハルは、掌に細い草を一本だけ乗せてみた。自分で摘んだのではなく、風が離してくれた茎だった。
短い旗のように持って、とてとて、と小さく歩みを戻す。
「せ、ーせ……」
「どうかしたの?」
よろけながら近づいて、もう一度呼びかける。せんせいはいつものように、やわからな笑みを浮かべた。それでもハルは、せんせいの中にある冷たさを敏感に感じとってしまえる。同時に、呼びかけに答えてくれたことが嬉しくて、微かに目元が緩んだ。
「……は、な……する……」
ハルの手の上では、草の旗が静かに震えている。それは短い草だが、ハルにとって植物はすべて『はな』だ。
「そうね」
せんせいはそれを間違いとして指摘も訂正もしない。ただ、微笑んで静かに答えた。
ハルはすこしのあいだ、それをせんせいに渡そうと小さな手を軽く動かす。けれど以前、渡そうとしたビー玉を『いらない』と切り捨てられたときのことを思いだして、びくりと体が震えてしまう。
「気が済んだなら行きましょう」
「………ん」
反応薄く答えて、また黙ってせんせいの後を追った。
『夏草』 25.8.29
8/29/2025, 4:29:53 AM