汀月透子

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〈木枯らし〉

 最初は、誤差だと思った。
 保険の運用報告に並ぶ数字のうち、説明資料と合わない箇所が一つだけある。
 電卓を叩き直しても、答えは変わらなかった数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、いつも人だ。
 私は画面を閉じ、椅子に深く腰を下ろす。

 この程度の違和感で騒ぐのは、新人のすることだ。
 そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥に残る疑問は消えない。

 思い浮かぶ顔は、一人しかなかった。
 新入社員の頃から、私を現場で鍛え、ここまで引き上げてくれた上司。
 その人の名前が、頭に浮かんだ瞬間、私は無意識に息を止めていた。
 まさか、という言葉が、否定ではなく、願いとして胸に残る。

 気づいたのは、数字の違和感だった。
 契約書の条件と、実際に回ってくる運用報告。その間に、説明できない空白がある。
 上司に尋ねると、「細かいところを見るようになったな」と笑われた。

 新入社員の頃から、あの人は私を引き上げてくれた。
 営業の現場で叱り、数字が伸びれば酒を奢り、「お前は伸びる」と言ってくれた。
 その言葉を信じて、ここまで来た。

 だが、調べるほどに疑問の輪郭ははっきりしていった。
 高額契約者向けの特別勘定型商品。運用報告書の数字と、内部資料に記された投資先が微妙に噛み合わない。
 規程では直接触れられない案件に、ファンドを一枚噛ませて資金が回っている。形式上は問題ない。だが、説明資料から、不利な注記だけがいつの間にか消えていた。

 表向きは「堅実」とされるその保険商品は、途中解約のリスクを強調し、継続を促す設計になっている。
 元本は守られる。大きな損は出ない。
 ただし、満期を迎えても、期待されるほどの金額は戻らない。

 本来なら、同じ金額を積み立てれば、老後にもう一段階の選択肢が残るはずだ。この商品では、それが削られている。
 損をするのは今ではない。何年も先、「思っていたより少ない」と気づく、その瞬間だ。

 しかも、途中でやめれば損が確定する。
 続けても、削られた未来を抱えたままになる。
 どちらを選んでも、「自分で決めたこと」にされる仕組みだった。
 元本割れの可能性は、書面上は説明している。だが、あの言い方では、誰も本気で未来を想像しない。

 決定的だったのは、私の名前で説明が通されたことだ。
「君が説明したことにしておいてくれ」
 信頼しているからだ、と上司は笑った。

 その後の流れは、容易に想像がついた。
 契約後に疑問を呈されても、窓口は私たちではない。用意された回答文に沿って、話は「市場環境」という言葉に回収される。説明不足という表現は使われず、誰の責任でもない形に整えられる。
 不利益が表に出ても、個別対応で処理される。数字が悪くなれば、運用ではなく説明の仕方が話題になる。

 上司は、その隙間で利益を得ていた。
 運用先の名目を使い、関連会社を挟み、少しずつ。
 派手ではないが、確実に。

 その金で、何を得たのか。評価、発言力、社内での立場。
 失うものは、契約者が将来気づく不満だけだ。その頃には、誰の責任かは曖昧になっている。

 もし、私が上司の立場になったら。
 同じ説明を、部下にさせるだろうか。
「聞かれたら答えればいい」
「細かいことは言わなくていい」
 そう言って、笑って背中を押せるだろうか。

──無理だ。
 一瞬で、答えが出た。このやり方を、私は引き継げない。
 まして、誰かに教えることなんて、できるはずがなかった。

 内部通報の画面を開き、どうしたいのか自問自答する。
 守ろうとしているのは、本当に会社か。それとも、この立場に立っている自分自身か。
 思考の嵐が心の中を吹き抜けたあとに残ったのは、ここで黙っていた自分を、十年後に誇れるかどうか。その問いだけだった。

 この先のことを考えながら社屋を出ると、ビルの谷間を木枯らしが吹き抜けた。
 乾いた音を立てて、落ち葉が足元を転がっていく。

 その瞬間、上司の声が、頭の中でふっと遠のいた。
 叱咤も、笑顔も、あの夜の酒の匂いも、風にほどけていく。

 あの人がいなければ、今の私はいない。
 それでも、あの人の隣に立ち続ける未来は、もう選べなかった。

 私はコートの襟を立て、社屋の明かりを背にする。
 告発は、復讐でも正義でもない。ただ、同じ場所に立ち続けないという意思表示だった。

 木枯らしは、振り返らせないための音だった。

──────

自分にはビジネス系は向いてない(白目

あのむちゃくちゃ細かい文字の説明書は、読むのを拒否しリスクを感じさせないためのものだと思いました。
「どのようなリスクがあるのか、説明時に書面を指差してもらって一緒に声を出して読む」のが一番らしいですけどねぇ……



1/18/2026, 2:39:02 AM