専門学生だった頃、俺は学校をサボりながら漫画を描いていた。
その内容は『ディグラー』と呼ばれるトレジャーハンター的な職業を生業としている少女のミウと、『ガーディア』という『ディグラー』を護るボディガードのような職業に就いている少年のトモのボーイミーツガールを主軸とした冒険活劇のような物語の漫画だ。
その長編漫画の終盤、S級クラスの超難関ダンジョンに挑戦しようとする無謀なミウを引き止めてトモは言った。
「やめろ、しぬぞ! 俺は君にしんでほしくないんだ!」
ミウは微笑んだ。
「私もトモにしんでほしくない。だからあなたはここに残って。私は一人で行く…」
アップカットのコマ割りの中、ミウは決め顔で続ける。
「ここで諦めたら、きっとしぬより後悔する人生を送ることになると思うから…!」
集中線で強調された迫真極まるミウの台詞だったが、何年も経ってから黒歴史的な当時の自分の作品を読み返している今の俺には、人生経験の浅い10代少女の言葉など、ちっとも心に響いてこない。
はっきり言って『じゃあ勝手に一人で行けよ、このわからず屋め…』って感じだ。
しかし当時の若く感受性豊かな俺の心境が如実に投影されている主人公の少年トモはミウを優しく抱きしめて言った。
「……やっぱり俺も行く。君を失ったら、きっとしぬより後悔する日が続くことになると思うから」
急にミウを抱きしめたと思ったら、コイツはいったい何を言っているのだろう。今の俺からすると、ツンツン頭にハチマキを巻いて大剣を背負っているトモの心境がまるで理解できなかった。
なんてことを書くとミウとトモが救われないので、描いていた漫画のキャラクターの話はここまでにして…本題に入る。
今日のテーマ『岐路』
専門学生だった頃、俺は迷っていた。
このまま専門学校に通いながら就職活動し、仕事を見つけて無難に働くか、それともミウとトモの物語『ディグ・アンド・トモ』を書き上げて出版社に持ち込んで漫画家として華麗にデビューするか…馬鹿みたいだけど本気で迷っていた。まさしく人生の『岐路』であった。
いや迷っていたと書くと嘘になる。どっちかというと俺の中では漫画家になるという思いのほうに針が振り切れていた。盲信的に漫画家になれると信じて暴走する刹那的な思考回路の若者そのものだった。
現に当時の俺の生活は『ディグ・アンド・トモ』の制作に支配されきっていた。
昼頃に起きると洗顔も歯磨きもせずにパソコンの電源をつけて漫画の制作に勤しんだ。
自律神経の乱れと不摂生により俺の目の下には大きなクマができており、さらに何時間も安物の椅子に座りっぱなしで作業を続けていたせいで腰痛を患い、一日中パソコンのディスプレイやネタをしたためたメモ帳と睨めっこしているので視力もガクンと落ちてしまっていた。
明らかに俺の体はボロボロで休息が必要であったが、それでも構うことなく作業を続けた。疲れを感じないある種のランナーズハイ的なゾーン状態に入っていたのだ。
しかし何時間もぶっ続けで作業していると流石に疲れてくる。
たとえば深夜。いよいよ集中力が切れてくるとコンビニに向かい、エナジードリンク3本と菓子パンひとつを購入し、それらをかっくらって脳に大量のカフェインと糖分を補給すると自分を奮い立たせて漫画を描き、明け方になると疲れ果てて泥のように眠る日々が続いた。
このように荒れ果てた生活を続けていると、やはりというか当たり前だが体にガタがきた。
ある日の夜、なんの前触れもなくやってきた。耐えられないほどの謎の腹痛が…
大量に出てくる脂汗を拭いながら俺は葛藤していた。
(救急車…呼んでいいのかな…)
しかし、そうするのは何だか恥ずかしかった。そこで俺は母親の携帯に電話した。
「あぁ、母さん? いや、ちょっと…なんか、めちゃくちゃ腹が痛くてさ。え、救急車? いや、それはいいや…いや、たぶん大丈夫だけど、ちょっと意識がとびそうで、そんで、もし部屋の中で倒れてそのままになったらアレだからいちおう電話したんだけど…うん、うん、いや…救急車は大丈夫。うん、歩いて病院に行ってくるから…」
電話を切った俺は近くの大学病院の夜間受付のようなところに向かった。
激痛に耐えながらしばらく待たされた後、研修医っぽい若くてイケメンの先生とベテランの貫禄がある看護士の女性が俺を診察してくれた。
いくつかの問答をして血液を抜き取られ、しまいには大仰にレントゲンまで撮られたものの、俺の腹痛は原因不明と診断された。
その後、点滴をうってもらってベッドの上で安静にしていると次第に腹痛は治まっていった。
そしてどうなったかというと、先生いわく『キャベジンみたいなもの』という腹痛に効く頓服を処方され、あとになってまた痛くなるようだったら病院に来てくださいと伝えられて、俺はなにがなんだか分からないまま自宅のアパートに戻って休んだ。
翌日、不穏な連絡を残して音信不通となっていた俺を心配して、父さんと母さんが遠くの田舎から俺の住むアパートに様子を見にきてくれた。
「ちゃんと飯は食っとんのか…大丈夫か…?」
菓子パンとサンドイッチの空き袋、大量のエナジードリンクの空き缶、それらに埋め尽くされた部屋の惨状と、どう見ても健康そうには見えない俺の姿を見て、父さんが最初に発した言葉がそれだった。
「学校が嫌やったら辞めて実家に戻ってき。ゆっくりして体なおさんと…」
母さんは涙声で俺に訴えかけた。
ベツに学校は嫌じゃなかったが、母さんの泣き顔を初めて目にして、俺の心は酷く痛んだ。
「いや大丈夫、俺は大丈夫だから、もうちょいこっちで頑張ってみるよ。ははは…」
ヘラヘラ笑ってその場をやり過ごし、両親が帰った後、部屋を片付けた。
リアルな『岐路』が目の前まで迫ってきていた。俺を心配してくれる人達のためにも、どうにかしなければならなかった。
そこで俺はどうにかすることにした。具体的には漫画家になる夢をすっぱりと諦めて学校に真面目に通って普通に就職した。ついでに悪い気が充満するこの部屋からも引っ越した。
そして現在。
当時あれだけ熱中して描いていた『ディグ・アンド・トモ』を読み返して思う。
この作品はまごうことなき駄作だ、と。
どこかで目にしたことがあるような名シーンのツギハギで構成された物語と、見ていて恥ずかしくなるような登場人物のセリフ回し、それらに加えて致命的なほどに絵がヘタだ。とても人様に見せられるようなモノではない。
今になって思うとこの作品を出版社に持ち込こもうと思っていたかどうかすら怪しい。何かに熱中して現実から逃れようとしていただけのような気もする。
だって、出版社の場所も調べてないし、持ち込みの方法すら知らずにただ描いていたのだから…
二度と更新されることのない自作漫画の最後のページを確認する。
覚悟を決めて最難関ダンジョンに向かうミウとトモの背中に酒場のオヤジが笑顔で声をかけていた。
「がんばれよ!」
人生の『岐路』において漫画家になる道を諦めた俺は、ふぅと息を吐いてオヤジに答えた。
「がんばってみるよ」と
6/8/2024, 1:37:39 PM