ゆかぽんたす

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「まぁ座りなよ」
すすめられた席に腰掛けるとふわりといい香りがした。バターが焼ける甘い香り。
「今焼けるから。少し待ってて」
そう言って先輩はキッチンの方へ姿を消した。私と2つしか変わらないのに、土日は実家の喫茶店の手伝いをしている。最近じゃほとんど1人できりもりしているらしい。
「レモンかミルク要るー?」
「大丈夫ですっ」
奥から投げられた質問に私も声を張って答える。何か手伝おうかとそっちへ向かおうとしたけれど、なんにもしなくていいから座っててね、と叫ばれた。やがて先輩が大きめのトレーを持って戻ってきた。いい香りがあたりに充満する。目の前に出されたのは断面の綺麗なスコーンだった。クロテッドクリームまである。これもきっと、先輩の手作りだ。
「わぁ……」
うっとりする私のそばで先輩はティーカップに紅茶を注いでくれた。なんて至福な時間なんだろう。こんな田舎なのに、ここはまるで別世界の感じがした。
「それで?どうだった?」
「いちお、合格しました」
「やったじゃん!おめでと」
「ありがとうございます」
先日のこと。私はとある国家試験を受けたのだが、その合否結果が発表された。結果は見事合格。1年以上かけて勉強しただけあって、結果が分かった瞬間は人目も憚らず大泣きした。
「良かったね、いっぱい頑張った証拠だよ」
「はい。努力が報われて良かったです」
「じゃあ、来年は東京行っちゃうのかー」
寂しいな、と、笑って言いながら先輩はスコーンを頬張る。私は何も言わずにカップに口をつけた。ベルガモットの優しい薫りが鼻腔をくすぐる。いつも思うけど、先輩はお菓子を焼くにしても紅茶を淹れるにしても天才だ。こんな美味しいティータイムを過ごさせてくれるなんて素敵すぎます、と昔言ったら大笑いされたことがあった。そんなに大袈裟に言わないでよ、と。全然、大袈裟なんかじゃなくて私にとっては極上の贅沢時間なのにな。
けどそれも、東京へ行くとなると気軽にはここへ来れなくなってしまう。数十秒前の、先輩の“寂しいな”が今さら心に染みてきた。この街を離れるとは、そういうことだ。
「まぁ、たまには帰って来るんでしょ?」
「もちろんです。ていうか最初のうちは多分しょっちゅう帰省しちゃうと思います。寂しすぎて」
「えーそれじゃ交通費やばいじゃん」
こんな朗らかに話せるのもこの先は貴重になってしまうと思うと胸がつまりそうになる。ずっとこのままでいいのにな、なんて。そんなふうにさえ思ってしまう。でも。
「やれるだけ、頑張ってみようと思います。自分なりに」
「うん。応援してる」
紅茶のおかわりをもらった。2杯目は先輩オススメのリンゴはちみつを垂らす。これが美味しいのよー、と顔を綻ばせる先輩を見てたらこっちまで笑顔になる。
「疲れたら帰っておいで。いつでも」
「……はい」
帰る場所があるって、幸せだな。うっかり涙が出そうになったのを隠すため、私は3つめのスコーンへと手を伸ばした。

10/28/2023, 4:32:03 AM