→短編・moonlight
塾から帰ってきた僕は、家の前で一人の知らない女の人に声をかけられた。
「あっ、ヒロくん! 会えてよかったぁ」
「えっ? あっ? 月子さん?」
声を聞くまで誰だか分からず、僕は素っ頓狂な声を上げてしまった。
月子さんは、僕の向かいの家に住んでいる6歳年上の人だ。俗に言う「近所のお姉さん」で、昔はよく面倒をみてもらった。絵が上手な人で、昔は色んなアニメのキャラクターを描いてもらったりしたものだ。しかし年齢が上がるにつれて、遊んでもらう回数は自然と減った。
僕が高3、月子さんは社会人。今では挨拶を交わす程度の間柄で、彼女の名前の通り、遠い存在となっていた。
「何? そのびっくり顔!」
「だって、その格好……」
いつもはキレイなお姉さんって感じの格好で、髪もおろしたままだ。それが、今日は長い髪を一つにまとめて、ジャージ姿。いつもと違いすぎる……。
月子さんは大げさに笑った。なんかテンション高いな。こんな感じの人だったっけ?
「やっぱり変かな? 高校の時のジャージ。若作りがイタイ?」
「そういうんじゃないけど……」
流石に「テンション変ですね」とは言えない。
「僕になんか用事っすか?」
かなり強引に会話を繋いだので、目線が泳いてしまった。月子さんはフッと笑ったが、僕の変な態度を見逃してくれたようだ。大人の余裕ってヤツ?
「うん、引っ越すから、そのお別れが言いたくてね」
「えっ?」
「結婚するの」
「……」
え? 今、なんて?
「まぁ、結婚したからって、実家はココなんだし帰ってくることもあるけど、そうそう頻繁には、ね」
そうして「実は、お腹に赤ちゃんがいるの」と付け加えた。
「じゃあ、イラストレーターになる夢は?」
思わず口走った僕に、月子さんは目を見開いた。
「覚えててくれたんだ」
昔から絵の上手かった月子さんは、高校も大学も美術系のところに通っていた。
彼女がいつも夜遅くまで自室で絵を描いているという情報元は、僕の母親からだ。月子さんと僕の母親は仲が良い。
「ちょっと優先順位が下がる、かな?」
月子さんは、静かに笑い、「でも、諦めてないよ」と付け加えた。
今日は何度も彼女の笑顔を見た。どれも違う表情。そして今は、目の奥に強い覚悟。
「ヒロくんに絵を描いてあげたみたいに、この子にも絵を描いてあげるの」
月子さんの明るい声は、とても優しかった。
夜半、僕は自分の部屋の窓から向かいの家を見ている。ちょうど前に月子さんの部屋。
あれから月子さんは、迎えに来た恋人?夫さん??の車で、去っていった。
昨日までなら、この時間でも黄色いカーテン越しに灯り漏れていた。
でも、今日は暗い。いや、今日だけでなく明日も明後日も、暗いんだろう。
その黄色い灯りをmoonlightと、僕は名付けていた。嫌なことがあった日や、くじけそうになった日、僕はその灯りを頼った。勝手に月子さんの頑張りに力をもらっていたのだ。
もちろんこんなことは誰にも言ったことはないし、これから先も言うことはないだろう。
そして僕のmoonlightは、今ではほかの場所を照らしている。素敵なことのはずなのに、僕の心はほんのり辛い。
テーマ; moonlight
10/5/2025, 5:48:20 PM