お題「やさしい雨音」
雨の日に一人でいると、姉のことを思い出す。正確には、姉の弾いていたピアノの音を。
私と姉は年が離れていて、仲もそんなによくなかった。小さい頃から姉と一緒に過ごした記憶はほとんどなかった。姉は私のことが好きではなかったのだと思う。小さかった頃の私は姉に構ってもらいたかったような気がする。親に叱られた一番古い記憶では、お姉ちゃんの邪魔をしないで、だったような気がする。
姉は幼い頃からピアノを始め、周りと違って、中学や高校に進学しても続け、音大のピアノ科に進学した。
姉は両親の誇りだった。
逆に私は大した取り柄もなく、勉強もできず、意地になってそこまで向いてないの陸上を続けた。私は放課後や休みの日は出来るだけ家にいないようにした。
それでも雨の日は家にいるしか無いときもあった。
二人ともフルタイムで働く両親は帰りが遅く、家には私と姉がいた。
そういうとき、姉の弾くピアノの音が嫌でも聞こえてきた。
姉は穏やかでも、優しい人間でも無かった。気難しく、家でも学校でもよく癇癪を起こしていた。学校で、というのは人から聞いた話だが。
でも、彼女の弾くピアノは綺麗で穏やかで、優しかった。
ピアノって、どんな人間でも綺麗な音が出せるものなんだ。
当時、何も知らない私はそう思った。
家のピアノは、姉が絶対に私に触れさせないようにしていて、ピアノ自体触ったことはなかった。
雨音みたい、と私は思った。ざあざあ降る雨ではなく、霧みたいなやさしい雨音。
大人になって、そういうものではないことを知った。ピアノでも、激しく凄まじい音も出せることを。
姉もそのような音を奏でていたことも。
私が聞く姉のピアノは、姉なりに気を遣っていたらしい。
そういったことを知ったとき、姉はもういなかった。
姉は大学四回生のときに失踪した。
理由はよくわからない。学業がうまくいなかっただとか、恋人に捨てられただとか、事件に巻き込まれただとか色々言われた。
姉が戻らないまま、私も大学を卒業し、就職し、結婚した。子供ができて、父が病気で亡くなり、母もガンを患っている。
今はもう生きているのか死んでいるのかわからない姉のことを覚えている家族はいずれ私だけになるだろう。
やさしい雨音みたいなピアノの記憶も私と共に永遠に消える。
(了)
5/26/2025, 9:04:32 AM