#雫
ぽつぽつと髪に何かが当たる感覚があって、そこで慌てて視線を持ち上げた。更に何度か額に、頬に、と濡れたことで降り始めたことに気付かされた。
傘忘れちゃったな。
先ほどまで降りそうで降らなかった空が堪えきれずに大粒の雫を溢れ落とし始めたらしい。一気に雨が降り注ぎ始めて、傘を忘れた僕はずぶ濡れになることを覚悟した。走って帰ることも考えたけれど、この降り方ではちょっとやそっと急いでも結果は変わらなさそうだと言う判断に至ったからだ。だからと言ってのんびりとずぶ濡れにもなりたくない。これでも体調には気を付けているのだから。
眼鏡まで濡れてしまい視界は良くない。それこそ、掛けていても掛けていなくても変わらないくらいには。恐らく掛けている方が視界が悪いような気もしてくる。
眼鏡も外し、ぼやけた世界を歩いていく。早く帰ってとっととシャワーを浴びたい。そう思いながら、走って通り過ぎていくサラリーマンを横目に見送り、背後から追い越していく学生さんを目で追った。何人目かの足音が近付いてきたと思えば立ち止まった。それと同時に髪に雨粒が当たるのも止まる。
「やっぱり遊木さんでしたね……」
「え、あれ? よくわかったね」
振り返ると良く見知った顔が呆れたと言わんばかりの表情を浮かべていた。
「オレ視力良いっすからね。直ぐわかりましたよぉ」
「僕は全然わからなかったよ」
「……そりゃあんたの方が前を歩いてんですから当たり前じゃないですか」
呆れ顔が隣に並んで、更に僕に歩くことを促してくる。僕はそれに倣って歩き始めると、漣くんは大きな溜息を吐いた。
「あんたずぶ濡れじゃないですか……風邪ひきますよぉ?」
「でもこの雨足だと走ってもずぶ濡れなのは変わんないなと思っちゃって」
「だけどちょっとでも早ければ、体が冷える時間も短くて済むわけですし。さっさと走りゃ良いのに」
「うん、まあそうだね」
体力がないわけじゃないけど、走る気がしなかっただけ。そこまで言うほどの理由なんてないから、敢えて説明する気も起きなかった。
「……まあ、これ以上濡れなければまだマシっすかね」
漣くんの持っている傘を差し掛けてくれている。おかげでありがたいことにこれ以上濡れることもなさそうだった。
「漣くんは濡れてない? 大丈夫?」
「この傘デカいですから大丈夫ですよぉ」
笑みを浮かべつつも早く歩けと言わんばかりに僕の背に手を添えて押されている。冷えていた背中にじわりと温かみを感じてしまう。ただそれだけで一人じゃないと思えてくるのだから我ながら現金なものだ。
「帰ったら直ぐ着替えて暖まってくださいよぉ」
「うん。そうするよ」
じっとりと濡れた髪からぽたりと雫が垂れる。さっきまで足取りが重たかったのに今は軽くなった気がした。濡れた髪を掻き上げて改めて眼鏡を掛け直した。間近にはっきりと見えるその顔はいつものように穏やかに見えた。
4/22/2023, 7:18:52 AM