sairo

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猫の眼のような金色の月が、暗い夜空に浮かんでいた。

「しまった……」

小さく舌打ちをして、足早に家へと向かう。丸い月に欠けた所はまだなかったが、空高く昇る頃には端からじわじわと欠けていくのだろう。
月蝕。一般的にそう呼ばれる月が欠ける現象に似ているものの、これから起こることは違うらしい。
年に一度、古くからこの村で行われる月待ちの風習。欠けていく月を待って何をするのかは分からない。大人だけが集会場に集まり、子供はその間必ず家にいなければならないからだ。

「今夜だったのをすっかり忘れてた。お母さんたち、もう出てるかな」

そういえば、今日は早めに戻るように言われていたことを思い出す。その時は話半分に聞いていたが、あれは今夜が月待ちの日だったからなのだろう。

「面倒くさい……」

眉を寄せ愚痴を溢しながら、灯りの消えた道を急ぐ。
来年にはこの村を出ていく予定だというのに、何故こうして意味の分からない決まりを守っているのか。馬鹿馬鹿しいとは思うものの、急がなければ家に入れなくなってしまう。
月待ちが始まれば、家に残された子供たちは朝まで厳重に鍵をかけた暗い家の中で過ごす。その間来訪者があったとしても、決して出てはいけないと言われている。
自分とは違い、まだ親のいいつけをしっかりと守る年の離れた妹は、いくら呼びかけた所で鍵を開けてくれることはないのだろう。始まりの合図である鐘の音が聞こえる前に帰らなければ、一晩外で過ごすことになってしまう。
浮かぶ月を一瞥し、速度を上げる。
星の見えない夜空に浮かぶ金の月。
昔から、この日の月は好きになれなかった。



「遅いよ、お姉ちゃん」
「ごめんね」

玄関の鍵をしっかりと閉めながら怒る妹を適当にあしらい、台所で水を汲んで一気に呷る。
深く息を吐き出す。走ってきたために汗で服が張り付き、不快だった。シャワーでも浴びようと、コップを片付け台所を出る。
廊下の電気を点けようと手を伸ばすが、その時ちょうど鐘が鳴り響いた。
月待ちが始まったのだろう。ランタンを手に近づく妹が、スイッチに伸びたままの手を見咎めて頬を膨らませた。

「電気、点けちゃ駄目だからね」

相変わらず妹は何の疑問も持たず、両親の言いつけを守ろうと必死だ。思う所はあるものの、自分も妹と同じ年の頃には変わらなかったと思い直す。

「分かってる。点けないよ」

苦笑してスイッチから手を離せば、妹は手にしていたランタンをこちらに手渡してきた。慌てて返そうとするも、妹は首を振り受け取ろうとしない。

「わたし、もう寝るから。夕ご飯は机の上にあるからチンして食べてってお母さんが言ってたよ。お姉ちゃんも電気を点けないで早く寝てね」

それだけを言って、妹は横を通り過ぎ自室へと去っていく。何も言えずにその背を見送って、疲れたように息を吐いた。
いつもは甘えたがりで怖がりな妹は、何故かこの日は酷く冷めた態度を取る。いつからそうなったのかは覚えていない。最初は戸惑い、どうすればいいか分からずにおろおろと妹の部屋の前をうろついていたが、ここ数年は妹の変化に何かを言うことはなくなった。
この日だけだ。次の日になれば、今日のことはすっかり忘れてしまうはず。
そう自分に言い聞かせながら変化から目を逸らす。安易に踏み込んでしまえば後悔する気がして、両親にすら何も言えないでいた。



シャワーと夕食を済ませ、自室で一人、ランタンの中で揺れる火を見ていた。
月待ちの夜は、電気を点けてはいけない。窓から外を見てもいけない。
いくつもの決まり事を思うだけで息が詰まる。まるで何かから隠れているようだ。
けれど昔は何も疑問には思わなかった。妹と同じように決まり事を守り、今頃は夢の中にいた。ただ人よりも好奇心旺盛だった自分は、母に月待ちについて聞いたことが何度もあった。

――大事なことなのよ。大人になったら分かるわ。

母は笑い、教えてはくれなかった。だがそれからも事あるごとに問い続ける自分に何か思う所があったのか、誰にも言わないという約束で一つだけ教えてくれた。

――月から降りてくるモノが、子供たちの方へ行ってしまったら大変だからね。

その言葉はどこか歪で醜く聞こえ、頭が痛んだのを覚えている。大変というのは、子供を心配しているからではない。それが理解できて、その時初めて、この村を出て行こうと決めたのだ。
溜息を吐いてランタンの火を消す。立ち上がり窓まで歩み寄ると、カーテンを薄く開けて浮かぶ月を見上げた。
こうして月待ちの夜にこっそりと月を見るようになったのは、母から話を聞いてからだった。

「また、欠けてる……」

去年見た時よりも明らかに欠けている月を見て眉が寄る。何かに月が食べられているかのような欠け方に、漠然とした不安が込み上げる。
両親は欠けて消えていく月を、どんな思いで見ているのだろうか。

「――あと一年。そうすればここから出ていける」

呟いて、カーテンを閉める。こんなに不安になることも、浮かぶ月に嫌悪感に似た気持ちを抱くのも、きっと村から出れば感じなくなるはずだ。それだけを信じて、今まで努力し続けてきたのだから。
こんなよく分からない月夜を一人で過ごすのも、これで最後だろう。閉めたカーテンを一度だけ撫で、ベッドへ戻ろうと窓に背を向けた。

「――え?」

暗いはずの部屋に、細く光が差し込んでいた。まるでさっき開けていたカーテンの隙間から差した月明かりが残っているかのように。
咄嗟に振り向くも、カーテンは閉まったままだ。

「なんで……?」

光とカーテンを見て、呆然と呟いた。この光はどこから来たのだろう。ランタンを消したことで部屋の中に灯りは何一つなく、光はあからさまに窓から伸びている。
そもそも、窓辺に自分が立っているのだから、カーテンを開けても光は半分以上遮られているはずだ。
何故。どうして。込み上げる疑問が頭の中で渦を巻き、それが全身に広がって恐怖に変わり出す。
ここにいてはいけない。本能からくる警告に従い、部屋を出ようと震える足を踏み出した。

「っ……」

視界の隅でカーテンが動いた。次の瞬間にはカーテンが体に巻き付き、動けなくなってしまう。
悲鳴は喉に貼りついて、掠れた吐息しかでなかった。震える体は、けれども自分の意思では指先一つ動かすことはできない。
カーテンの向こう側に誰かがいる。誰かがカーテン越しに体を抱き締めているような力強さに、いつか聞いた母の言葉を思い出す。

――月から降りてくるモノが、子供たちの方へ行ってしまったら大変だからね。

月から降りてくるモノ。あの時は聞き流していたそれが、頭の中で繰り返し響く。

「あぁ……」

呻きのような、嘆きのような声が漏れた。

「どうして……こんな、酷いことを……」

何も分からないのに、この村の罪深さだけは何故かはっきりと理解できた。泣きたくもないのに涙が溢れ出す。
涙と共に何かが溢れ落ちていくのを感じる。そして空いた隙間に何かが入り込んでくる。
恐怖はなかった。入り込むそれに、懐かしさすら感じていた。
もしかしたら、外から入り込んでいるのではないのかもしれない。奥底に閉じ込められていたものが剥がれ、溢れているのだろうか。

「月から……降りて……」

脳裏に欠ける前の月が浮かぶ。金に染まる前の何も染まらない白の月が、自分を見下ろしている。

「あぁ、そうか……」

その瞬間、理解した。
月待ちの日に感じる違和感。月を見る度込み上げる嫌悪感に似た感情が、本当は何に対するものなのかを。

月ではない。
月を蝕む人間たちの欲が何よりも悍ましく、怖かったのだ。

カーテンが顔を覆っていく。まるで何も見なくていいと伝えているかのように。
静かに目を閉じる。

――ようやく、其方に……。

恋う声が聞こえたのは、果たして気のせいだったのだろうか。
無意識に笑みが浮かぶ。
身を委ねれば、そのまま月と解けてしまいそうな気がした。



20260307 『月夜』

3/8/2026, 4:25:58 PM