【小さな命】
コポコポと微かな音をたてる水槽。その向こうのテーブルに、男女が向かい合わせで座っている。リビングに色鮮やかなグッピーの水槽が置かれた、洒落たマンションの一室。左手に揃いの指輪をした男女は、先ほどから甘い表情で言葉を交わし合っている。……それでね、私、赤ちゃんできたみたい。男の動きが一瞬止まる。続いて、晩酌のワインにむせかける。とうとう、僕たちの……。顔を覆った男の口元が、だらしなく緩んでいる。幸福を隠しきれないと言わんばかりに。それから男はワインを置いて女を抱き寄せ、熱烈なキスをする。
俺は死んだ魚の目で、彼らのやりとりを見つめている。羨望、妬み、悔しさ、憎しみ、そんな感情とともに。水槽の底で、もはや動かないヒレをぐったりと横たえて。
俺はかつて、この街で自由気ままに生きていた人間だった。自由に生きすぎて、敵も多かった。いつかそいつらに殺されるのだろうと覚悟していたが、不摂生による脳疾患であっけなく死んでしまった。そして、こんな小さな命に生まれ変わってしまった。それも、何の因果か、俺と敵対していた男の家を彩るグッピーとして。これじゃまるで檻に捕らわれた虜囚だ。俺を裏切って独立し、俺に殺されかけて逃げおおせた憎い男に毎日世話されるという、屈辱的で最悪のグッピー生だった。
しかもグッピーの寿命は短い。たった二年で老いぼれ、幕を閉じる。それでいまはこのザマだ。水槽の底から、もうほとんど残っていない意識を振り絞って、俺は願った。今度はもっとまともな命に生まれたい、と。できることなら人間がいい。いや、絶対に人間がいい。そうだ、このタイミングで死ねば、この男の子供に生まれ変われるかもしれない。そして、この屈辱の復讐を――
「いやぁ、アナタ、六道輪廻ってご存知です? アナタの次の転生先は、餓鬼道ですよ」
俺の魂を迎えに来た天女みたいなやつは、開口一番に男の声でそう言った。
「そ、そんな! せめて、今流行りの異世界に!」
「異世界転生は希望者が多すぎてどこもいっぱいいっぱいなんですよ。だいたい、アナタのように殺しが日常茶飯事だった魂を、他の世界に放てるわけないでしょう。異世界に迷惑です。グッピー生を味わうこともせず、ただただ小さきものと見下して一生を過ごし、人間に未練たらたらで欲の深いアナタには、餓鬼道がお似合いです。今度こそ反省してくださいね」
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やはり徳を積んでおかないと、金持ちの家の猫に生まれ変わることはできませんよね。
ちなみに私は無宗教です。
2/25/2024, 12:09:32 AM