なんでもないフリ
母の愛をもらえなかった私は、人から愛されるのだろうか。
描かれるような一般的な子供時代を送れなかった私は、うまく生きて行けるのだろうか。
よく、わからなかった。
ただ、SNSでなんの根拠もない一個人の人間がつぶやく「絶対論」に私はひたすら誑かされていた。生い立ちも違えば、性別も違うかもしれないのに、大きな主語に翻弄され、人が恐ろしく感じるほどに、私の精神は未熟していた。また、その基盤は非常に脆く、その脆さこそが、SNSで述べられた一部の大きな声を証明してしまうようだった。
そこには、こう書かれてあった。
「昔から、まともに育てられてない子供は、生きてゆくのが難しいのよ。」
ズドン、と心が重くなってゆくのを感じる。本当にそうだろうか?と反発する心の許容量がなければ、どんどん暗闇の中に落ちてゆく。書き手の一つの感情で変わるかもしれない浅はかな主張なのに、私の胸には嫌というほど刺さる。
それは現実でも起きた。
「大学までに、恋愛してないと、どこかおかしいのよ」
神楽坂の洒落た酒場で、セレクトショップの店員を意識したような同級生が言った。片耳のピアスは、その顔を避けようとして初めて認識した。
私は口に含んだビールを吐き出したくなった。
どちらも、根拠のない話だ。
ただの本人の主観であるのに、本人はそれが当然かのように言う。意見を述べることは問題ではないが、マイナスな要素を断定的に述べる人間は、果たして、何を目的にしているのだろうか。
しばらくしたある日、
YouTubeのショート動画が流れてきた。
かの有名な俳優の生い立ちだった。
過酷なわかりにくい両親からの愛情に耐え、兄弟を養いながら現在の地位までいたった生い立ちだった。
私は、彼のことをとても好きになった。
そこのコメントには、こう書かれてあった。
「やっぱり、こういう苦労をしてきた人は、不謹慎だけど魅力的よね」
私はこのコメントを見た時、どうしてそのように考えられなかった時に、この動画が表示されなかったのだろうかと思った。私は、私が考えていることが正しいと思いたいがために、その証拠集めをひたすら現実でおこなっているのではないかと思ってしまうほどだった。
何が正解か、わからない。
おそらく正解などない。
ただ、一つの事象からなる複数の問題によって積み上げられてきた過去が、これからの一生を全て決めるというのは間違っている。
もしそれが本当ならば、もっとわかりやすく証明されていて、もっとわかりやすく教育機関などで言われているはずだ。そんなAならばBであるような事象ならば、国が政策をとらなければならない。
だから、私は、自分の頭と心に優しさがひとつでも残っている時は、私はたった一つの負の事象からこれからのことを決めつけたくはない。人はなるようになる、それは良い方向に変わってゆくという微かな希望だけは、死ぬ間際も忘れたくない。変わっていけることを喜べるようになれる。そんな浅はかな理想論を言い続けていたい。その未来を作る一歩目は、恐怖に打ち勝つことでも勇気を振り絞ることでもなくて、今ある自分のまま平然と生きていくことのような気がしている。
12/12/2024, 3:24:48 AM