お題:言葉はいらない、ただ・・
◇ ◇ ◇
抱きしめてほしい。今すぐに。
涙が頬を伝ってフローリングの床にぽたりと落ちた。
◇ ◇ ◇
今日は私の誕生日で、恋人が一緒にデートをしようと誘ってきてくれた。もしかしたら私が生まれた日を祝ってくれるのかな、なんて浮かれながらデートで着る服を選んでいると、突然私のスマホが着信を告げた。なんだろうと思いスマホを開くと、私が愛してやまない恋人からのメールだった。どうしてと疑問に思い、ふと最悪な想像をしてしまって嫌な汗が流れた。そんな訳ないだろうと思い私はメールを開いた。が、最悪な想像は実現してしまった。
『ごめん、さっきお母さんが事故に遭ったらしくて、これから病院に行くことになっちゃった。今日のデート、また今度でもいい?』
「今度? 今度っていつ?」
メールの文面を見た私の第一声はそれだった。我ながら面倒くさい女だと思った。
でも、せめてメールでは平静を装うべきだと思い、私はすぐに『大丈夫だよ』とだけ返信し、すぐにスマホを閉じた。
お母さんが事故に遭ってしまったのは仕方の無いことだし、病院に行くのも当然だ。それに、こうやってデートが別の日になったことも何回かある。それなのに、今日はとても悲しかった。そんなに自分の誕生日が大切だったのかと自分でも驚きだった。
デートの予定にもあった、お昼に行くつもりだったお店の予約は向こうがキャンセルしたらしいけど、私はお昼のことなど全く考えずに先程まで選んでいた、デートに着る予定だった洋服達を全部放り投げ、近くの椅子に座ってテーブルに突っ伏した。
◇ ◇ ◇
私は、その日放課後の教室でぼーっとしていた。その日は高校の入学式で、見慣れない顔と見慣れない教室で私は新学期を迎えた。
何故か行く気にならなかった友達からの遊びの誘いを断り、今こうして教室でただぼんやりと空を見つめている。
すると、ふと教室の扉が開いた。先生かと私は身構えたけど、教室に入ってきたのは元クラスメイト兼今の私の恋人だった。2年生になった今ではクラスは離れているけど。
「あ、ごめんなさい。ちょっと忘れ物しちゃって……」
「いいよ、敬語じゃなくても。クラスメイトなんだし」
「えっ……」
私の言葉に彼は一瞬驚いていたけど、私を見ながら「うん」と頷いて彼はおそらく彼が座っている席であろう席に向かい机の中を漁り始めた。
少しして、彼はペンケースを取り出すと鞄の中にしまい、扉の前まで進むと私の方に振り返った。
「名前何ですか……じゃなくて、名前なに?」
「私の?」
「そう、皆の名前早く覚えたくて。今日は7人も覚えた」
彼はそう言いながら何故か自慢げに指を7本立てた。私はその自信満々な表情に吹き出しそうになったけど、笑いを堪えて自分の名前を告げた。
「そっか。これで8人目だ」
私が名前を告げると、彼は嬉しそうにふわりと微笑みながらそう言い、その後に彼自身の名前も告げた。
◇ ◇ ◇
「うぅ……」
どれ程時間が経ったのかは分からない。私は、彼との出会いであり、私が彼に惚れた日のことをふと思い出していた。あの時は私の名前を知って幸せそうに微笑む彼を見て、私まで幸せな気持ちになった。でも、今は何故かその思い出が苦しい。今だけは彼に関する物事全てを忘れてしまいたい気分だった。
気分が沈んだまま、私はキッチンに向かった。お昼は何も口にしておらず、せめて何かは食べようと思ったからだ。
【ピンポーン】
突然チャイムが聞こえ、私は扉を開いた。
そこには、私が今1番会いたくて、今1番会いたくなかった最愛の人が居た。
「なんか……思ったよりもお母さんが元気で、早く帰ることになったから来ちゃった」
「あ……うん。中入っていいよ」
私が彼を中に入れると、彼がソファに座ったので、私は彼の座っている反対側に置いてあるソファに座った。
「ごめんね、せっかくの誕生日だったのにデート台無しにしちゃって……」
「いいんだよ、事故なら仕方ないし」
いつもなら永遠に続くかのような勢いの彼との会話が、今日は何だかぎこちない。
私がそう思っていると、突然彼が両腕を広げた。何だろうと首を傾げると、彼が突然必死に説明をする。
「あ、こ、これは僕が寂しくて……。ハグしてもいい……?」
その言葉を聞いて、私は涙が出そうになりながらも彼にそっとハグをした。彼は少し驚きつつも私を抱きしめ返してくれた。
今は彼からの好きも愛してるもいらない。ただ、抱きしめてくれる、それだけでいい。
最愛の人は、私が今1番求めているものを、私にくれた。
少しして、名残惜しいけれど私は彼の腕の中から離れた。すると、彼が口を開く。
「誕生日おめでとう。僕、頼りないかもしれないけど……。これからもよろしくね」
「……うん」
……やっぱり、言葉もちょっとは欲しいかもしれない。
◇ ◇ ◇
8/30/2024, 3:07:28 AM