sairo

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遠く聞こえる声に、眉を顰めた。
山の麓では、今日もまた人間たちが争い続けている。

――山を崩すなど、罰当たりめ。
――山神様の祟りに遭うぞ。

古くからこの山と共に生きた者らが、怒りに任せて声を上げる。

――だから、山神なんていないって言ってるだろうが。
――今時、祟りなんて時代遅れの考え方。誰も信じちゃいないよ。

山を出た子らが、親を嗜める。

交わらない二つが言い争うのは、聞いていて気分が滅入った。
目を閉じ、嘆息する。
聞きたくないのであれば、声から遠ざかればいい。しかしこの山にいる限りは、どこへ行ったとしても声は聞こえることだろう。
いっそ争いを止めてしまえば、また以前のような平穏が訪れるのかもしれない。一瞬過ぎた考えに、できるはずがないと苦く思う。
争い自体を止めるのは簡単だ。だがそれはつまり、どちらか一方を肯定することを意味している。
古いしきたりに従って山を守るか。それとも、人間が生きるためにしきたりを捨てて、山を崩すか。
どちらも正しく、どちらも間違いである想い。
正反対でありながら根底は同じそれの一方を肯定することなど、できるはずがなかった。

「悩んでいるね、神様」

囁く声がして、目を開けた。
見上げれば、楡の枝に座る子供の姿。楽しげに足を揺らしてこちらを見ていた。

「神様にとって、山を崩すことは悪いことではないの?」

首を傾げる子供に、同じように首を傾げる。
何故山を崩すか否かが善悪に繋がるのか、理解できなかった。

「神様は山なのだから、自分の一部を切られたり崩されたりするのは嫌でしょう?」
「嫌だと、悪になるのか?」

問い返せば、子供は不思議そうに目を瞬いた。
顔を上げ、遠くを見つめる。その目は聞こえる争いを悲しむようにも、この先の山の行く末を憂いているようにも見えた。

「お前は善悪を何で測っている?」

ふと興味が湧き、問いかける。
問われた子供は、暫し悩むように視線を彷徨わせこちらを見つめた。

「納得できるか、できないか……かな。あとは、母さんに教えてもらったこと、とか」

答えたものの、自信はないようで眉を寄せている。

「神様は善悪を何で測るの?」
「善悪とは人間の概念だ。我らには存在しない」

己のような存在は、ただその場に在るだけだ。善でも悪でもなく、形すらもなかったモノ。
その在り方の善悪を定めるのは人間だった。
理解できてはいないのだろう。子供はさらに眉を寄せ、俯きながら何かを考え込んでいた。
やがて顔を上げた子供は、麓の村のある方へと視線を向けた。
争う声はまだ続いている。

「僕たちは……悪いこと、だったのかな」

ざわりと、楡が葉を揺らした。
気づけば周囲には子供たちが集まり、静かにこちらの様子を伺っている。

「大人たちは善いことだって、誇らしいことだって言ってたけど、本当は……」

呟く声音は、酷く淡々としている。その表情も何の色も浮かんではいない。

「皆は、どこまで信じていたんだろう。村を救うため。神様のため……僕はそれを信じてたけど、母さんは本当に信じてたのかな」

ざわざわと楡が震えている。子供たちが身を寄せ合い、どこか怯えた表情をして枝に座る子供を見つめていた。
恐れているのだろう。ここにいる子供たちは皆、信じていたのだから。
自身が選ばれたことが誇らしいと、最後まで周囲の言葉を疑いもせずにいた純粋な子らだ。それが崩れてしまうことは、耐えられないのかもしれない。

「人間は変わる」

枝に座る子供を見上げ、告げた。
真っすぐで、どこか虚ろな目が向けられる。言葉の真意を測りかねているような静かな姿。
いつの間にか大人びてしまった悲しい子供に、そっと手を伸ばした。

「お前たちの親は信じた。手を離すことに苦悩し、それでも村のためと決断した。その意志は善でも悪でもない。だが……」

枝から降りる子供を抱き留め地に下ろしながら、麓を一瞥する。
今は膠着しているが、いずれは山を切り開くことになるのだろう。その時の子供たちの行く末を思い、微かに胸が痛むのを感じた。

「お前たちはいずれ、山を切り開く者によって見つけられるのだろう。その時、かつてを知らぬ者たちはお前たちを見て、悪だと断ずるのだろうな」

あぁ、と周囲から声が漏れた。
啜り泣く声。それを慰める囁き。それは信じていたことが崩された故の悲しみではない。
信じたことを、何も知らぬ者が声高に悪と断じることの哀れみだった。

「――仕方ないことだ」

誰かが言う。それに誰もが頷いた。

「何も知らないのだから、仕方ない。でも、知ろうとしてくれる誰かがいてくれることを願うよ」

静かな声だった。
無垢だった皆は、子供でありながら聡明な大人となっていたようだ。

「山がなくなったら、神様はどうなるの?」

問われ、楡を見上げた。
始まりを覚えていない。ならば考えた所で終わりなど分かるはずもなかった。

「どうなるのだろうな。消えるか、その場に在り続けるか……人間が山を覚えている限りは己はここに在るのだろうが」

その前に今の形を失うのだろうか。最初と同じように形なく漂うのかもしれない。

「じゃあ、最後まで一緒にいてね。皆は神様のためにここにいるんだから」

誰かの言葉に、歓声が上がる。楡が震え、柔らかく葉を揺らした。
目を瞬く。子供たちを見つめ、微笑んだ。

「そうだな。共にいよう」

差し出される手を取る。はしゃぐ子供たちに囲まれながら、そっと耳を澄ませる。
争う声は聞こえない。どちらかに傾いたようだ。

空を仰ぐ。変わることのない青に目を細めた。
どのような先であれ、山も子供たちもここに在り続けることに変わりはない。

それを幸せだと、誰かが笑った。
誰もがそうだと笑っていた。

4/27/2026, 11:26:50 PM