私は「絆」というものが好きではない。どちらかというと嫌いだ。
「絆」と聞いて何を思い浮かべるだろうか。私はまず小学生時代の運動会を思い出す。当時の私は可もなく不可もなく、友人が多くもなく少なくもなく、極めて平凡な人間だった。人のうしろをついていき、友人同士が喧嘩をすればできるだけ双方に良い顔をしてフェードアウトし、別のグループにお世話になる、芯がない性格であった。そんな私が唯一と言っていいほど嫌悪感を示した言葉、それが「絆」だ。
運動会、学芸会、宿泊研修など私はこの言葉が小学校行事のスローガンで使われがちだと認識している。
さて、「絆」とはどういう意味か改めて考えよう。デジタル大辞泉には『1 人と人との断つことのできないつながり。離れがたい結びつき』とある。……いや、重たすぎる。こんなに重たい意味をもつ言葉を私たちは「クラスの絆を深めよう!」などと気軽に使っていたのだ。
私はいまも昔もこの言葉について"自然に芽生えるもの、決して強制されるべきではない"と捉えている。
クラスが一致団結して仮に「絆が芽生えた」とされても、何も行事のない時期にはその熱はとっくに冷め、重たい雰囲気が教室中に充満してるではないか。
私は強制されるのが嫌いだ。そして「絆」なんて目に見えないもので縛られるのがすごく嫌いだ。「絆」なんてなくていいじゃないか。そう思っている。
話は変わるが「仲間」という言葉、これにも拒否感はある。しかし学生時代の私はたしかにクラスの仲間の一人だった。一年間同じ人間と同じ空間で飽きるほど長い時間を過ごし、小さな目標を一つずつ達成していく。そこにいるだけで「仲間」として存在し、役割を担うことができた。
いまの私に「仲間」と呼べる存在はいない。だから過去の自分が羨ましく、眩しくみえる。
3/6/2024, 8:46:52 PM