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 全力で走ると息が上がって苦しい。
 こんな当たり前のことを、きっと社会人になってからほとんど経験していない。久々に走っている私は、走り出してから数歩で息も絶え絶えだ。
 それでも足を止めるわけにはいかない。

 私には、行かなくてはいけないところがある。

 メロスのように大切な誰かを待たせているわけではない。でも、私が今行かなくてはいけないという使命感で足を動かしている。
 この道は、知っている。幼い頃、友達と遊びに行った公園へ向かうまでの道だ。坂道が多くて、行きは下るから楽なんだけど、帰りはひたすら上るから徒歩でもチャリでもつらかった。
 その知っている道で坂道を下って、公園とは反対に右へ曲がった。私が向かっている場所は、公園ではないのだ。

「佐藤さんどこへ行くの?」
「あそこですよ、あそこ」
「そっかー、どんまい!」

 急に横から現れた上司に話しかけられた。答えたら答えたで応援してるんだかしてないんだか微妙な言葉をもらった。その言葉はこの間特大ミスをかまして凹んでいる時に上司から実際に言われた言葉だ。その時のことを思い出してまた少し落ち込んだ。
 上司はそのまま並走するのかと思ったら、私に笑顔を向けながら離れていった。
 一体なんだったんだろう。
 私は首を傾げながら、それでも足を止めなかった。

 随分走っているはずなのに、目的地には程遠い。これは実際の体感として記憶している。
 相変わらず息を上げながら走っていると、後ろから嫌な気配がした。
 背中がゾワゾワして落ち着かない。そんな不快感を掻き立てるような嫌な気配だ。
 私はチラッと目線を後ろへやった。一度前を見て、自分の道を間違えてないか確認してからもう一度、今度は顔ごと後ろを振り返った。
 真っ黒だった。
 アニメに登場する犯人みたいに、真っ黒のシルエットだった。違うところは顔がのっぺらぼうのように目も鼻も口も付いていないところだ。
 真っ黒なシルエットはそれでも人間を模っていて、手足を動かして走っていた。そのスピードは尋常じゃない。真っ直ぐ走ってくる姿は迫力があり、思わず足がすくんでしまう。
 捕まったら最後だ。
 頭の片隅によぎった。捕まってはいけない。誰を追って走っているのか分からないけど、もし私を追っているとしたら捕まってはならない。
 私は顔を前へ向き直し、思い切り地面を蹴った。追いつかれてはいけないなら、突き放す勢いで走らなくては。
 スピードを上げてから手や足の強張りが感じられる。それすら振り切って、とにかく手足を動かした。人生で一番必死に走っている。
 もう呼吸ができているか怪しいくらいだ。グッと力を入れた時に止めていた息を吐く。すぐに吸って、また吐いた。頭が疲労でぼんやりしてくる。緩みそうになる手足にまた力を込めて動かす。
 後ろをチラッと見た。真っ黒な人は、変わらず私を追っている。距離が縮まってきたのか、真っ黒な人が何か叫んでいるのが聞こえてきた。でも聞き取れなくて、とにかく逃げる。ここではない、あの場所へ。
 前を向いて走っていて、自分とは違う足音が聞こえてきた。コツコツ、その音が耳に入ってくる。コツコツ、コツコツコツ。どんどん大きくなってくる。コツコツ、コツコツコツ。気配も大きくなってきた。もう、真後ろにいることが私もわかった。
 私は振り向いた。こちらに真っ黒な手が伸びてきている。やばい。

 やばい、遅刻する。

 ハッと目が覚めて、飛び起きた。体を起こした状態で、肩で息をしていた。何回か深呼吸を繰り返した後、手探りにスマホを探した。
 はたして、手にしたスマホ画面には、アラームよりも十分早い時刻が表示されていた。私はスマホ片手に頭を抱えた。
 逃げていた。私は夢の中で、どこかへ行かなきゃいけなかったはずが、いつの間にか逃げることになって。ここではないどこかへ向かって逃げていた。それで……。
 その続きは思い出せず、なんかの拍子に遅刻すると思って目が覚めたのだった。
 それにしても。

「まさか、現実へ逃げようとしていた?」

 常に現実から逃げたい人間が、なんだってそんな夢見たのか。夢って不思議だ。



『ここではないどこか』

6/28/2024, 7:27:53 AM