時計の針
時間という概念を作ったのは誰なんだろうって、ふと思うことがある。
時間帯を表す言葉も、1日を24時間で決めたことも、一ヶ月がおよそ30日なことも、1週間や1年の括りも。
時間という目に見えなくて、でも確かに存在しているもの。
人間が生きるうえで共通認識としていられるように、こういう感じでやっていきますと取り決められた手段なのだろうか。
いや、もっと天文学的で自然的なことで、この世界の始まったときからすでに決められていたことなのかもしれない。
時間の共通認識はとても分かりやすくて便利だ。
たとえば、2時と言えば、誰だってああ2時ね、となる。太陽が頂点を過ぎて、少し傾いた頃なんて言おうものなら、そこに見方の相違が生まれて、待ち合わせは難しいものになると思う。
便利なものは、人間を窮屈にしているなと少し感じることがある。
人々はいつも時間に追われている。
それはこの世に人が生まれたときから定められている死へのタイムリミットの存在も大きい。
いつまでも身体が若いままではいない、いつか来る老い、そして死があると分かっているから、急いでいるのか。
腕時計や掛け時計、ビルのデジタル時計、スマホの画面、生活の至るところに時間を意識させるものがあって、まるで急かされているかのような錯覚を覚える。
もう何時だ、打ち合わせが始まる。休憩時間が終わる。約束の時間に遅れる。
生きるもの全てに時間は平等にあるのに、人間だけが時間に囚われているーーーーように見える。
『時間はある』のに、『時間がない』が口癖。
これはあくまで一方的な見方で、窮屈に感じさせているのは私自身かもしれない。
いつも世界を悲観的に見ている。全部を悲しい出来事だと思えば、変な期待も無駄な気持ちの高鳴りで、心を傷付かせずに済むから。
チクタク、チクタク。
今日も時計の針は進む。
時間が過ぎることは、少しの切なさを感じさせることもあるけれど、救いにもなっている。
憂鬱な気分のときがあっても、死にたいほど辛い日があろうとも
止まることなく規則的に止まることなく進む。
進んで、進んで、時間は進んで、いつの日にか、ああ、そんなこともあったかと懐かしんで見るときが必ず来る。
自分の気持ちの問題か、いや、人の心は変わるから、そのきっかけが時間ということもあるだろう。
楽しくない時間は来るが、必ず終わる。
そう心に思うだけで、憂鬱な気持ちもいくばかりか軽くなる。
楽しい時間もいつかは終わってしまう?
憂鬱なときもあるのなら、
楽しい時間もいつかは終わってしまうと考えてしまうのは自然なこと。
でも、時間が巡っている限り、きっとまた楽しい時間は来る。
そう思えば、楽しい宴会の終わりも寂しくなく終われるでしょう?
あれ。結局のところ、自分次第だったってことか。
時間は前にしか進まないから、ポジティブ思考だな…なんてね。
余談だが、この世界を支配できるほどの力を持てたなら、
世界から時計を全て無くしてみたい。
太陽が昇り、沈む。自然があるままの世界では、今の現代人はきっと暮らせないんだろうな。
時間のしがらみから解放されたい。
こうあるべきという固定観念。思い込みから解放されたい。
心が自由になりたい。
2/6/2023, 2:18:36 PM