〈秋風🍂〉
秋風が吹くと、胸がしめつけられるように切なくなる。
少し冷たくて、どこか遠くへ何かを運んでいくような風。あの頃、まゆみと一緒に感じた風の匂いを、私はいまだに忘れられない。
小学生の秋、私とまゆみは生まれた時からの隣同士。
まゆみの家の庭でどんぐりを拾い、放課後は公園のブランコで暗くなるまで話した。いつも一緒で、それが当たり前だと思っていた。
まゆみはよく笑う子だったけれど、ときどき急に黙り込んで空を見上げる。
「秋の風って、ちょっと寂しいね」
その言葉の意味を、当時の私は理解できなかった。
ある朝、まゆみはいなくなっていた。
学校へ行くと机が空っぽで、先生が「まゆみちゃんは引っ越しました」とだけ言った。
理由も行き先も聞かされず、私はたまらず母に尋ねた。
「ねえ、まゆみはどこに行ったの? なんで急にいなくなったの?」
母は一瞬、言葉を探すように黙った。
「……清花。まゆみちゃんのお母さん、少し大変だったみたいなの。夜のうちに出ていったらしいわ」
「夜のうちに? どうして?」
「詳しいことはよく分からないの。
でも、あの家にはもう戻ってこないのよ」
その言葉の意味を、当時の私は理解できなかった。ただ「もう戻ってこない」という響きだけが怖くて、胸の奥で何かが崩れる音がした。
私は何日も何日も、熱が出るまで泣き続けた。
母が優しく頭を撫でてくれたけれど、あの空白は埋まらなかった。
まゆみの家の庭では彼女の自転車が倒れたままで放置されていた。
どんぐりの木の落ち葉を巻き上げている秋風が、彼女を連れ去ってしまったようだった。
中学生になった頃、隣の家は更地になり、「売物件」の看板が立てられた。
夕飯の支度をする母の背中に、私はそっと尋ねた。
「ねえ、お母さん。まゆみ、今どこにいるのかな」
包丁の音が止まり、母は少し息をついてから言った。
「……まゆみちゃんのお母さん、暴力を受けていたんだって」
私は思わず手を止めた。
「……DVってこと?」
「うん。だから、お母さんはまゆみちゃんを連れて夜のうちに逃げたのよ。
まゆみちゃんも、小さいのにきっと怖かったと思う」
母の声には悲しそうな響きがあった。
「清花、まゆみちゃんのこと、忘れられないのね」
「いきなりいなくなったから、置いていかれたみたいで……」
「置いていったんじゃないと思うよ。
きっと、どうしても言えなかったの」
まゆみが黙って風を見ていた理由が、ようやく分かる気がした。あの風の向こうに、逃げたい気持ちと、言えない痛みがあったのだ。
それから十年以上が過ぎ、私は二十代半ばになった。
隣の庭のどんぐりの木は伐採され、家が2軒立った。両方とも小学生の子どもがいる家族が住んでいて、毎日がにぎやかだ。
そうして季節がいくつも巡っても、まゆみのことはどこか胸の奥で凍ったままだった。
そんなある日、打ち合わせ先の駅前ですれ違った人に、懐かい面差しを感じて足を止めた。
向こうも同じ思いなのか、振り返り声をかけてくる。
「……清花?」
そこには、まゆみが立っていた。
少し大人びた表情。でも、目の奥の柔らかさは変わらなかった。
「……まゆみ? 本当に?」
「うん。ずっと会いたかった、清花……夢みたい」
涙ぐんだまゆみが、微笑みながらカフェを指差す。
「ねえ、少し時間ある? ゆっくり話そう」
「うん、私も話したいこと、たくさんあるんだ」
私はうなずいた。
運ばれてきた紅茶のカップを見る内に、抑えていた言葉がこぼれた。
「私、すごく寂しかったの。
ある日いきなりいなくなって、何が起きたのか分からなくて……
まゆみが私のこと嫌になったのかって思った」
まゆみは小さく首を振る。
「違うの。……清花のお母さんから何か聞いてる?」
私が頷くと、まゆみが俯きながら声を絞り出す。
「あのころは、パパが怖くて何も言えなかった。
ママが夜中に荷物をまとめて、二人で逃げたの」
「ママに言われたのよ、『もう戻れない』って……
怖かったけど、清花にだけはサヨナラって言いたかった。でも言う時間もなくて」
その声は震えていた。
私はそっと息を吐いた。
「……そっか。まゆみも、つらかったんだね」
「うん。清花と離れるのが一番つらかった。言えなくてごめん」
まゆみの頬を涙が伝う。私もつられて目頭が熱くなる。
二人でほろほろと泣く姿に、ケーキを運んできた店員が戸惑っていた。
「ママが離婚するまで時間がかかったし、二人で生きていくのにせいいっぱいだった。
最近ようやく気持ちにゆとりができて、会いたいと思ったけど……清花が私を覚えてるかどうか、怖くて」
その声は震えていた。
「もし忘れられてたらって思うと、連絡できなかったの。
自分だけが昔に縋ってるみたいで」
私はそっと首を振った。
「忘れるわけないよ。まゆみは、秋風みたいにいきなりいなくなったけど、ずっと心のどこかにいた」
まゆみは小さく息を吐いて、ふっと笑った。
「ねえ、今うちのママね、保育士してるの」
「えっ、そうなんだ?」
「うん。逃げたあと、しばらく母子寮で過ごして、そこで保育のボランティアをしてて。
それがきっかけで資格取って、今は小さな保育園で働いてるの」
まゆみの表情がやわらぐ。
「自分が逃げ場を探してたくさんの人に助けられたから、今はお母さんたちの味方でいたいんだって。
仕事や家庭で疲れてるお母さんを見ると、放っておけないみたいで、疲れていても“あの人が笑ったからもう大丈夫”って言うの」
私は胸が温かくなった。
「……素敵だね。強い人なんだね」
「ううん、強くなろうとしたんだと思う。あの頃、泣いてるママを見てるのが怖かった。
でも今は、笑って働いてる姿を見ると、なんか救われる」
まゆみの瞳に、一瞬、昔のような表情が重なった。
私はそっと微笑んだ。
「まゆみも、頑張ってきたんだね」
「うん。清花に会って、ようやくあのとき止まってた時間が動き出した気がする」
店の外では、木々が風に揺れている。カップの中の泡がゆらゆらとほどけていく。
まゆみは少し照れたように言った。
「話したいことたくさんある……まだ、時間いい?」
私は笑って頷いた。
「もちろん。あの日の続きをしよう」
秋風がガラスを震わせた。あの頃は寂しさを運んできた風が、今は私たちを寄り添わせてくれるようだった。
──────
秋通り越して冬ですね……
つじつまが合わない箇所を修正、構成し直しました。
10/22/2025, 11:50:31 PM