月が凪ぐ夜

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決して開けてはならない扉があった。いつからそこにあるのか、何故開けてはならないのか、一切の疑問をものともせず、その扉は静かに佇んでいる。
ただ時折、漏れ聞こえる声が僕の心のなにかを揺らす。かすかに聞こえてくる嗚咽は時が経つごとに少しずつ、少しずつ大きくなっていく。
そうしてその声が鮮明になっていくにつれ、それがまとう感情が見えてくる。
胸を刺すような切なさと、凍りつくような寂寥の響き。身を切るような叫びは、聞く側の心さえも引き裂くような痛みを感じさせた。
差し出した手が冷たく、無機質な縁へと触れる。吸い付くような木の感触に少しだけ心が戸惑う。
―――開けて、いいのだろうか?
声はまだ言葉で届かない。けれど哀切を訴えるその声が、本当にそれだけを訴えているのだろうか。
扉に触れて張りついたように離れない手は、自らの意思で扉を開けることを待っている。ほんの少し力を入れるだけで、扉はいとも簡単に開くだろう。

開けてしまえ。という誘惑に、
開けないで。と何かが引き止める。

時間の経過がわからないまま、どのくらいをそのままでいただろう。いつの間にか嗚咽は消えてなくなり、しんと静まった暗闇に扉とともに残された。それでも僕はその場を離れられず、扉に手を捕らわれたまま立ち尽くしていた。
ぽろりと、頬に一雫の涙が落ちる。
そして次の瞬間に僕はその涙の意味を知った。

認めて欲しかったのだ。目を背けず向かい合って欲しかった。たとえ自ら閉じ込めたものだとしても、自分の本当の想いを無かったことにしてほしくなかった。
認めたくなかったのだ。自分の中にある醜い感情を知りたくなかったんだ。君に抱くこの想いが君にばれないように、僕は必死にそれを隠していたのだから。

この扉は僕の心。そして聞こえた嗚咽は僕の泣き声。
心の奥底に閉じ込めた、君への想い。それは決して日の目を見せぬと誓った―――恋心。



決して開けてはならない扉があった。
暗がりの中で静かに佇む僕の心の禁足域。
君へと溢れる想いを留めて、いつでも僕はその扉の手の届くところから離れられない。
開けてしまえと言う本能に、開けないでと理性が抗う。それは永遠に続くのだろう。
僕が君を愛する限り…。


【暗がりの中で】

10/28/2023, 11:49:43 AM