『19時にいつもの店で』
LINEが届いたのは1時間前。
三徹して書き上げた原稿を担当編集に送った直後のことだった。
急いで熱いシャワーを浴びて眠気を追い出し、ボサボサの髪と無精ヒゲを処理する。
クローゼットの中から、先月妹に薦められて買った服を引っ張り出して袖を通す。
それなりに値が張るだけあって、着心地は良い。
財布とスマホを手に家を出て、5分後店に着いた時、彼女は既に1杯目を飲み干した後だった。
「遅い!」
イヤ、まだ19時になってないし…という言葉は呑み込んで、彼女の向かいの席に座る。
突然呼び出されるのは毎度の事。
今の所、俺は彼女からの呼び出しを断ったことがない。
仕事で人と会う予定があったとしても、39度近い熱があったとしても、3日前に転んで足を捻挫していたとしても、だ。
店員にいくつかの料理と烏龍茶を頼んで彼女と向き合った。
2杯目のビールも既にジョッキ半分の勢いでなくなっている。
これは覚悟せねばなるまい。
「ねぇ、運命って何?」
運命、人間の意志を超えて幸福や不幸、悲しみや…って、そういうことを知りたいわけじゃ無いよな。
「何があったんだ?」
店員が運んできた烏龍茶を受け取って一口飲む。
確か、先々月呼び出された時は、新婚旅行はどこに行くのがいいかって、生まれてこの方日本どころか、本州から出た事もない、ほぼ家に引きこもりの34のおっさんに相談してきたんだよな。
まぁ、散々惚気られて俺の心はズタボロになったわけですが。
「……き………た」
「うん?ごめん、聴こえなかった」
そんな睨まれても全然怖くないし、寧ろ可愛いとか思ってしまう所、俺も重症だよな。
まぁ、実際可愛い…いや、美人だしな。
ちょっと吊り目できつい印象は受けるけど、笑うと可愛いし、色白だし胸も大きいし、腰細いしいい匂いするし。
幼稚園の頃から男子に人気あったし、中学に入ってからすぐに彼氏できてたし、大学ではミスコンで優勝もしてたよな。
就職してからも、会社の先輩とか取引先の奴とか街コンで出会った男とかと付き合ってたし、今の男はマッチングアプリで知り合ったんだろ?
えーと確か…3年、いや、4年付き合ってるのか。
次のふたりの記念日、来年春に結婚するんだって言ってたよな、薬指にはめた指輪見せびらかして。
お陰様でその時の原稿、書き直し喰らいまくったわ。
んで、式場とか見て回って場所探ししてるって……、ん?指輪が無いな、そう言えば。
「浮気してた」
「お前が?」
「違うわよ!あっちが!」
追加で注文したビールが届いた。
それ、3杯目だよな、ペース早すぎじゃないか?
「今日、デートの予定だったの。で、待ち合わせのカフェに行ったら女と一緒にいて…」
そしてそのまま彼女は何も言わず俯いた。
顔を隠すように流れた髪の隙間から、ぽたりぽたりと小さな雫が落ちている。
「知り合いか、誰か…なのかとおもっ…て、そし…た…ら……」
「……うん、そしたら?」
「………妊娠してるって言うのよ!しかももう少しで5ヶ月だって!それにその子22歳なのよ、信じられる?22よ、私達より一回りも下なの。あいつとは15も離れてるのよ?」
「もしかして…」
「そうよ、新入社員よ。教育係として仕事を教えているうちに、とか言ってたけど、入社して2ヶ月で種しこ、もがっ」
咄嗟に彼女の口にサイコロステーキを放りこんだ。
いくら騒がしい居酒屋だからと言っても、お下品な言葉は控えようか。
「あ、このステーキ柔らかくて美味しい」
「それは良かった」
「…可愛い子だったわ。何ていうの、こう、ふわふわしてて、護りたくなるような?」
そういう子に限って腹黒いものだよ。
うん、これはきっと初めから狙ってたんじゃないか。
大手企業の役職付きで、確か親は既に鬼籍に入っているんだったか。
そうなれば、介護の心配もなくて、親が残した家も土地もあるし、超優良物件だよな。
ちょっとこう弱いフリして誘い込んで、1度寝てしまえば後は済し崩し的にってところか。
このサイコロステーキ本当、美味しいな。
このガーリックがきちんと役目を果たして…って、え、もう3杯目飲み終わったの、早すぎる。
次は日本酒って、泊まっていく気だな…はぁ…。
「"僕たちが出会ったのは運命なんだ"とか言って、2人で手を握ってみつめあっちゃったりして、もう、ドン引き。指輪突き返して帰ってきたわ」
「おつかれ。でも良かったんじゃないか、結婚する前で」
「まぁ、そうよね。うん、そういうことにするわ。いい勉強になった!」
「そうだな」
それから1時間もしないうちに彼女は酔いつぶれ、彼女を背負って俺は店を出た。
「おーい、大丈夫か?」
「……ねぇ」
「うん?」
「私って魅力ない?」
「…十分、魅力的だよ」
「でも、22の小娘に負けた……」
「それは…」
「ほら、やっぱり魅力ないんだぁ!」
「ちょっ、暴れるな。落ちるぞ」
足をばたつかせて、あ、ほら、ヒール落ちた。
アスファルトに投げ出されたヒールを拾って、彼女を背負い直す。
ついでにもう片方のヒールも脱がせてしまう。
ヒールに傷がつくと怒られるのは何故か俺で、その度に1足プレゼントさせられる。
「悔しいよぅ…」
「うん」
「辛いよぅ…」
「うん」
「やっと結婚できると思ったのにぃ…」
「……そんなに結婚したいのか?」
「したいぃ、結婚したいよー」
「………なら、俺とするか?」
どうせ、明日になれば忘れてる。
「いいの?」
「あぁ」
「本当に?」
「本当だ」
「じゃぁ、指切り!」
「は?この体勢で?」
「はやく!」
「わっ、暴れるなって、本当に落ちるぞ」
「ゆーびーきーりー!」
「ったく、ちょっと待て……、いいか、絶対動くなよ、ほら」
彼女を背中に乗せたまま少し前屈みになる。
彼女を右手だけで支えて、左の小指を差し出した。
「ゆぅびきーりげんまん♪」
彼女が歌うこの歌を子供の頃はよく聴いた。
何か約束する度に指切りをさせられた。
それは、遊びの約束だったり、勉強を教える約束だったり。
でも、いつの間にかしなくなっていた。
「嘘ついたら、ラムせんぼんのぉます、ゆびきったぁ……」
下戸の俺にラム酒千本飲ませたら死ぬぞ、コラ。
あっという間に規則正しい寝息を立て始めた彼女を背負って、残りの家路を急ぐ。
重くは無いし、体力的にも問題は無い。
あと1時間以上はこのまま背負って歩ける。
けど背中にあたる双丘の柔らかさと、首筋にあたる寝息、そして三徹明けのヤバいテンションの脳ミソのせいで、理性が持たない。
「あー、覚えててくれねぇかなぁ…」
俺の呟きは夜の闇に吸い込まれていった。
6/23/2024, 7:58:10 PM