フィロ

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東京生まれの東京育ち
そこ以外で暮らしたことは無かったが、私が嫁いで実家を出ると両親は海辺の街へ移り住んだ

「海を見ながら暮らしてみたい」という母の長年の夢を叶えたのだ
その時から私の実家は、海を見下ろす高台のその家になった

引っ越しを終えて改めて訪ねた新居に入る際、「お帰りなさい」と母は優しい声で迎え入れてくれた
私は慣れない家の玄関先で「お邪魔します」とうっかり出そうになった言葉を慌てて呑み込み、「た、ただいま」と真新しいスリッパにつんのめるようにして足を通した


庭のデッキからは美しい海が一望できた
太陽の光がキラキラと宝石のように煌めいていて、その動きで波の立ち具合いが分かった

「素適な眺めでしょ  時々豪華客船や大きなタンカーが通るのよ  こんな景色を見ながら暮らしたら長生きするわよね」と母はうっとりとした表情を浮かべた
東京の都心の大きな土地を手放したことなど微塵も後悔していないようで、私は安堵した

ほとんど初めて見る景色のはずなのに、何故か懐かしい気持ちになった
胸いっぱいに吸い込む潮風がさらに懐かしさを思い起こさせた

きっと、景色とか匂いとかよりも、「海」というものに人は何故か懐かしさを感じるのかもしれない

「ひいては返す波の音は母親のお腹の中の羊水に揺られている音に似ている」という文章を読んだ記憶がある
きっと「母なる海」、誰もが母から生まれるように、海は誰もがどこか懐かしいような、そこへ帰りたくなるような存在なのかも知れない


初めての海辺を歩いても、私のような新参者もまるで昔からそこに居たように優しく受け入れてもらえた

「おかえり  またいつでも帰っておいで」
柔かい波が足元を濡らしながら、そんなメッセージを運んでくれてきたような気がした


私の住む場所からは距離も離れているので、実際には盆暮れ正月にしか「実家」へは帰れない
それでも、時々フッと「あぁ、海へ帰りたい」と思うのだ




『海へ』

8/24/2024, 5:49:31 AM