谷折ジュゴン

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創作 「見つめられると」

わたくしの存在意義とはいったい何なのでしょう。
唐突に湧いた疑問は、わたくしを不安の中に突き落としたのです。
彼は毎日わたくしの発達を記録していますが、彼はわたくしをどのような思いで見つめているのでしょうか。

「やぁ、『うで』。今日は書けそうかい?」

「マスター、わたくしは実験なんて大キライです」

「そうかい。それは困った。明日は記録を王室に提出しなきゃならないのに」

彼は切なげにわたくしを見つめます。そのちょっと困ったような表情が、わたくしのいたずら心をくすぐりました。

「ところでマスター、顔にインクがついていますよ」

わたくしは右の手袋を外し、彼の頬に触れました。彼のぬくもり、柔らかさ、匂い、味が指先から感覚中枢へと流れ込んで来ます。わたくしはえもいわれぬ喜びに酔いしれて、さっきまでの不安をすっかり忘れていました。
すべすべした彼の肌にゆっくりと手のひらを這わせ、親指で彼の唇を撫でます。もし、わたくしに体があれば、彼を全力で抱きしめていたことでしょう。

「キミはボクに、どうして欲しいのかい?」

「どうもしなくても、こうして触れていられれば、見つめられていれば、わたくしはもう充分なのです」

彼がいる。それだけが、わたくしの存在意義だと気づいたあとは、彼の研究に反抗するなんてことはしません。わたくしにとってのマスターのように、マスターにとっては研究が存在意義なのですから。
(終)

3/28/2024, 10:59:10 AM