カーテンの隙間から垣間見える陽の光が、一本の線となって入り込むだけの薄暗い部屋。
狭い通路の奥へと続く、本棚の部屋があった。
もう長い事使われてはいない閉め切ったその部屋には、誰に言われるでもなく子供ながらに其処には立ち入ってはいけない気がしていた。
"父の書斎"となっていたその部屋は、長きに渡り埃を被った得体の知れないモノ達がひっそりと息を潜め、その部屋の主を待っているような気がしてならない。
その主人とは、最初は父だと思っていた。
何度か入ろうとは試みてはいたが、昔入ろうとして母に『入ってはいけない』と固く口止めされていた。
何故母が、そう言ったのかわからなかった。
きっと父の部屋だからという意味だと、その頃は純粋ながらそれ以上の疑いもしなかった。
その後、その部屋を見るたびに気にかけていたものの、母の厳しい目が浮かぶ度、入ろうと言う意思は欠け、その部屋自体無いものとして過ごしていた。
それから数日経った日のことだ。
心を痛める要因は何だったのかは忘れたが、悔しさと悲痛な感情があったのだと、思う。
泣いて、泣いた卑屈さを、自らに宥めたその安堵から、どうやら深く眠ってしまったらしい。
目を覚まして辺りを見回すと、薄暗い自分の部屋にいるのだと意識が戻る。
自分の部屋のドアが開いていた。きっと感情のそのままに開けっ放しにしてしまったのだろう。
泣き腫らした目を凝らし、そのまま狭い通路の奥へと何気に目を向けた時、ふいに何かを感じた。
あの部屋だ…。
恐怖が混じる興味が沸々と湧き上がる。ふいに立ち上がると、引き寄せられるままに奥の部屋の廊下へと足を踏み出していた。
忍ばせた足先に、陰る廊下の冷たさが妙に生々しかった。
母の目を盗み、何度かは入ろうとして思い留まった場所。まだ一度も踏み入れたこともない道の境域だった。
(…大丈夫。)
胸を少し締め付けるような重い気を無理に押し込めて、自分に何度も言い聞かせる。
近づいてわかったことだが、奥の部屋のドアが少し空いているのに気づいた。
母が閉め忘れたのだろうか…?
自分が見るときはいつも閉められたままだったが、なぜ今日になって空いていたのか。
少し開いたそれをそっ、と押して目に映ったそれは
何かとてつもない威圧感を抱いた。
もう何十年もの間、そこに息を潜めまるでその中で生きているかのような奇妙な恐怖を。
自分がこの場に居合わせてしまったことに恐怖した。
そのときやっと母が入ってはいけない、と言っていたことがわかった。
幾つも山積みされた書籍と、そっと寄り添うようにして置かれた額縁の中に、こちらに嗤いかけているかのような奇妙な男の絵が描かれていて、口と首からは血が垂れていた。
描かれたのは作った色ではない、恐らく時が経ち少し錆びた赤黒さを感じた。
…本当の血で描いたような色だ。…何故か理解していた。
乱雑に置かれた壺が行手を阻み、それ以上は奥へと進めなかったが、進むこともしなかった。
自分の何かが、警告していた。
自分の今まで見てきた世界とは、また別の空間で繋がっていたことと、すぐ近くにそれは存在していたことの恐怖が一気に襲って、暫くその場から動けなかった。
…からん。
ふいに音がして、背筋が凍る。
重い音と共に花瓶が足元に転がって来たのを見て、
ようやく我に返る事が出来た。
慌ててその場を、後にする。
廊下に出た筈なのに、走っても自分の部屋まで辿り着けない。自分の部屋までそんなに距離はない筈なのだ。
ふと気づけば、片手に刀を握っている。
あの部屋から逃げる時に勝手に持ち出してしまったのだろうか………?
慌ててはいたが、自分が物を持ったという記憶はなかったのだが…。
声を掛けられ振り向くと、
首から顔まで白粉で塗り、乱れ髪にやつれ顔の女が立っている。気持ち悪いくらいにやにやとお歯黒を見せながら嗤っていた。
「逃げ道はないよ。」
嗤った口から見える黒い歯に、一瞬ぎょっとして怯んだが、無性と言われた事に沸々と怒りが込み上げ、片手に持った刀で斬り殺してやろうと刀を振り上げると、少し女は身を縮めさせながらも、ひっひっひっ、と薄気味悪い声で笑った。
その振り上げた腕に一筋、冷たいものが垂れてくる。
怪訝そうにわたしは、それを見る。
その先には今しがた見たことのある色が垂れていた。
あの部屋で見た、奇妙な男が描かれた額縁に塗られた色だった。
しかしわたしはそれを見ても焦燥するどころか、心は無の境地にあった。腕に垂れる一筋の冷たさは、もう生温かく感じていた。
…ひどく懐かしく思う。
これをよく知っている。
この錆びついた赤黒い色を。
この刀で、わたしが殺したのだから。
お題: 視線の先には
7/20/2024, 5:26:30 AM